りけイノシシのweb武将名鑑

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二条城攻め:戦いで読み解く戦国史

二条城攻めは、敵対し和睦を拒否する足利義昭の居城である二条城の周辺を織田信が焼討ちにしたことを指します。二条城攻めとは名ばかりで、実際に城攻めが行われたわけではありません。

二条城攻めとう文字と灰色の背景

二条城攻めとは?

二条城攻めの勝敗と起きた場所を示す図

織田信長が自身に敵対する足利義昭と和睦するために、圧倒的軍事力を背景とした脅しを敢行。御所(足利義昭の居住地)の二条城の周辺を焼討にしました。これを、二条城攻めと言います。 

二条城攻め以前の情勢

織田信長と足利義昭が敵対した後の経緯を示す図

以前までは概ね良好だった織田信長足利義昭の関係が1572年になると悪化します。これにより、織田信長足利義昭を批判する十七ヶ条の意見書を提出。

このよう中で、甲斐(山梨県)の徳川家康の領地である遠江(静岡県東部)に武田信玄が侵攻。三方ヶ原の戦いにて、徳川・織田軍は武田信玄に敗北。三方ヶ原の戦いの結果を受けて翌年、足利義昭武田信玄を頼り織田信長に敵対。

しかし、足利義昭は前哨戦の石山砦・今堅田砦の戦いに敗北。一方で、足利義昭が頼り被下武田信玄も、病状悪化のため帰国を開始。織田信長は前哨戦に勝利するも、自身が譲歩してまで足利義昭との和睦の道を模索し締結の直前にまで話が進みました。ところが、当然足利義昭織田信長との和睦を拒否。

二条城攻め

3月25日

足利義昭との和睦が不可能と考えた織田信長は、武田軍が自国に向けて引き返していることを知ると、岐阜城を出陣。京に向かって兵を進めました。

3月29日

近江(滋賀県)と山城(京都府南部)の国境、逢坂にて、細川藤孝荒木村重織田信長を出迎えます。そして、正午には織田軍は京に到着。織田信長知恩院に本陣を構え、諸将は京の東部に布陣。

4月2日~3日

織田信長は、京の郊外への放火を命じました。同時に、足利義昭に和睦を提案する使者を派遣。しかし、足利義昭がこれに応じることはありませんでした。

4月4日未明

ついに織田信長は京に放火します。織田軍は京の北部、上京を焼討ちにしました。足利義昭の御所(居住地)である二条城と、天皇の御所である内裏は京の中間に位置。北は上御霊社から南は将軍御所の当たりまでを焼き払ったのです。織田信長は、二条城と内裏に火の手が回らないよう手を回して焼討ちを実行しています。

天皇の内裏に火が回らないよう注意するのは当たり前ですが、二条城にまで気を配ったのは、あくまで焼討ちが足利義昭に対する示威行動だったからです。織田信長はあくまで、和睦による解決を望んだのでした。

さらに、織田信長は焼討ちで生じる治安の悪化に対して対策を講じませんでした。あえて、治安を悪化させることで、民衆に足利義昭に治安維持する力すらないことを示すためだったと考えられています。

4月4日夕方~4月7日

上京の焼討ち後から、和睦の流れが急激に進みます。とはいうものの、足利義昭は当初、和睦に応じるつもりはなかったようです。そこで、織田信長天皇に和睦の話を通し、天皇の仲裁によって足利義昭と講和。

まず、織田信長の本陣に天皇の使者が訪れます。使者の役目を務めたのは、関白の二条晴良、大納言の三条実澄、中納言の庭田重保でした。その後、4月6日にも使者が足利義昭の元を訪問し、講和を伝達しそのまま織田信長の陣に再び足を運びました。4月7日には、織田信長が二条城に講和の使者として、織田信広・佐久間盛信・細川藤孝を派遣し講和が成立。

4月8日

和睦が成立したことによって、織田信長は京を発し岐阜城に帰還。

二条城攻め以後の情勢

二条攻め後の足利方が籠った城の場所を示す図

織田信長との講和後も足利義昭は不穏な動きを見せます。二条城の修理のために、吉田兼見から人足を何度も徴収。そして、5月には諸国の諸大名に織田信長を滅ぼすために挙兵することを要請する書状を出します。7月には二条城を家臣の三淵藤央に守らせ、自身は槇島城に移り、再度織田信長に敵対するのでした。