長島侵攻:戦いで読み解く戦国史
長島侵攻は織田信長が、伊勢(三重県北部)長島に侵攻することで生じた一連の戦いのことです。ここでは、織田信長の長島侵攻の流れを追っていくことで、伊勢長島侵攻について見ていきましょう。
長島侵攻とは?
長島侵攻は織田信長が、長島を攻めたことで生じた戦いです。織田信長はその生涯で合計4度長島を攻めています。ここでは、織田信長が長島を攻めた軍事行動を総称して、長島侵攻ということにします。
最初の長島侵攻は残りのものと目的は異なるものの、織田信長は長島攻めで3度苦杯をなめさせられています。織田信長が長島攻めで苦戦した原因の1つが、長島の地形にあります。
長島は河口にある島
「長島」は木曽川、長良川、揖斐川の3つの川が合流する河口にある複数の中洲のことです。
木曽三川と呼ばれる3つの川が合流することからも推測できるように、当時の川幅は非常に大きく、河口の中洲は河口に浮かぶ島のようでした。さらに、複数の中洲同士が互いに連携していたこともあり、1つずつ順番に攻略することも困難だったのです。
このように、大軍を擁しても攻略することは難しく、長島は守る側に有利な地形でした。織田信長の父の織田信秀も、長島の手前にある津島までは支配下に収めましたが、長島には手を出しませんでした。このことからも分かるように、長島は難攻不落の土地として認識されていたのです。
※しかし、残念なことに長島があった地域は、その後の開発により現在では大きく環境が変化しました。そのため、多くの当時の地名の示す場所が明らかになっておらず、当時の長島や長島侵攻については謎が多いです。本記事でも現時点での推測を元に紹介していきます。
第0次長島侵攻(斎藤龍興を追って)
1567年8月
織田信長が初めて長島に兵を向けたのが、稲葉山城(後の岐阜城)を落とした直後でした。美濃(岐阜県南部)を支配していた斎藤龍興が、織田軍の包囲に耐えられなくなり居城の稲葉山城を捨て船で川を下り長島に逃亡。
織田信長は、斎藤龍興を追って長島を攻めますが失敗に終わったのです。長島を攻め落すことが困難だと考えた織田信長は長島攻略をあきらめ、伊勢(三重県北部)の北部に侵攻。足利義昭の上洛(京に上ること)を実現させるための、背後の安全を確保しようしたのです。
第1次長島侵攻(VS 長島一向一揆)
野田・福島の戦いの最中に、石山本願寺が織田信長に対し敵対を表明。石山本願寺の住職である顕如が、全国の一向宗の寺に向けて織田信に対し蜂起するよう書状を送りました。
1570年11月21日(小木江城の戦い)
これを受けて、長島の願証寺も石山本願寺からの書状を受けてが蜂起。ここに、長島一向一揆が勃発します。織田信長の弟、織田信興が在城した小木江城を、一揆勢が襲撃。
小木江城は1565年に、長島と服部党を監視するために織田信興によって築かれた城でした。織田信長は長島の監視を弟の信興に一任していたのです。
一揆勢が小木江城を襲撃した際、織田信長は志賀の陣の最中でした。浅井長政・朝倉義景・比叡山延暦寺との対峙中で援軍を派遣できません。これにより、小木江城は落城し織田信興は自害。
1571年5月12日(第1次長島侵攻)
織田信長は小木江城のかたきを討つために、5万の兵を率いて長島に向けて出陣。軍勢を以下の3手に分けて3方面から長島に攻め込んだのです。
5月16日
織田信長は、一度兵を引こうとして全軍に撤退命令を出します。すると、一揆勢は撤退する織田軍を山中で襲撃しようとします。太田口方面の指揮官だった柴田勝家は、一揆勢の襲撃を受け負傷。また、太田口方面で殿を務めていた、氏家直元が討死にしています。こうして、第1次長島侵攻は、織田信長の敗北に終わりました。
第2次長島侵攻(VS 長島一向一揆)
1573年9月
手痛い敗北から2年後、織田信長は再び長島攻めを行います。織田信長は長島侵攻に際して、伊勢(三重県北部)の北畠氏の支配下にあった船を利用しようと考えたのです。織田信長は、北畠氏の養子として送り込んだ次男の北畠具豊(後の織田信雄)に命じて、大湊に船を集めさせようとしました。しかし、大湊の有力者は船を出し渋り、結局船が集まることはなかったのです。
9月24日~26日
船は手に入らなかったものの、織田信長は長島侵攻を実行。伊勢北部に数万の軍勢を召集。9月25日には太田城に着陣し、26日には一揆勢が守る西別所城を攻略しました。
10月6日~8日
織田信長の配下の武将が北伊勢の諸城を攻め、北伊勢の大部分の城が降伏もしくは織田方の手に落ちます。以下が織田信長に降伏、もしくは攻め取られた城だと言われています。
- 坂井城
- 近藤城
- 萱生城
- 伊坂城
- 赤堀城
- 桑部南城
- 千種城
- 長深城
しかし、白山城の中島将監のみが織田信長に降伏せず、抵抗姿勢を見せたので織田信長は配下の武将を派遣し城を攻めさせました。
10月25日
伊勢の大湊での船の調達が思うように進まなかったこともあり、織田信長は軍を返します。撤退に際し、滝川一益を矢田城に入れて、織田軍は美濃に向け撤退を開始しました。
しかし、長島一向一揆側もだまっていません。織田軍が撤退を開始すると一揆勢は多芸山にて、織田軍を待ち伏せ。織田軍の殿を任されていた、林通政は奮戦するも討死。しかし、林通政の奮闘のおかげで、織田信長は窮地を脱し大垣城に逃げ帰ることができたのです。
第3次長島侵攻(VS 長島一向一揆)
前年に織田信長が長島を攻め落とせなかった原因の一つが、軍船の準備ができていなかったからでした。川岸から長島を包囲しても、河口に位置する長島には海上からの、物資の運び込みが可能です。さらに、軍船の数が足りなければ、織田軍は長島に直接攻撃も仕掛けられません。
そこで4回目の長島侵攻に臨むに当たり、織田信長は軍船の調達を万全にして長島一向一揆との戦いに臨みました。
1574年6月
織田信長は岐阜城を出陣して、長島侵攻のための本営となる津島に着陣。津島は、尾張の中でもトップレベルの商業都市で、織田信長が尾張を統一する前にその勢力を支えた都市でもありました。織田氏の勢力圏に動員命令をかけて7万もの兵を徴収しました。そして、陸上と海上から長島の包囲を始動。
7月
陸上から攻める織田軍は以下の3手に分かれて進軍しました。
具体的な場所の特定は困難ですが、上記の図のような配置だったと考えられます。また、ここでは柴田勝家が進んだ賀鳥口は「かとりくち」と読み、読み方から現在の三重県桑名市香取町付近から進軍したとしています。
7月14日
陸上の織田軍は進撃を開始。織田信長は小木江の一揆勢を敗走させた後、前ヶ須、海老江島、加路戸、鯏浦島の一揆勢の拠点を放火。また、篠橋砦への攻撃も命じます。そして、自身は五明砦に本陣を構えました。
7月15日
織田方の水軍が長島一帯に到着。織田水軍を構成するのは以下でした。
九鬼・伊勢水軍合わせて数百艘の船が河口を封鎖し、長島をの中洲の間を流れる川を埋めつくしました。北畠具豊は織田信長の次男で後の織田信雄です。南伊勢の北畠氏の養子となっていました。
7月16日以降
織田軍の水陸を問わない猛攻により、一揆勢は各砦を追われ、中洲の長島、屋長島、中江、対岸の篠橋、大鳥居に逃げ込みます。これは織田軍による誘導作戦で、5つの城砦に籠る人の数が増えることで、5つの砦内の兵糧(食糧)は早くなくなります。この後、織田軍は5つの砦を包囲し、兵糧攻めにします。大鳥居砦、篠橋砦に籠った一揆勢は、織田軍に降伏を申し出るも許されません。
8月2日夜
大鳥居砦の一揆勢が、夜陰に乗じて砦を抜け出します。しかし、織田軍がこれを発見し攻撃。織田軍の攻撃によって大鳥居砦は陥落。男女合わせて1000人が打ち取られました。
8月12日
大鳥居砦と同様に、篠橋砦も兵糧が限界をむかえていました。篠橋砦の一揆勢は、長島に渡り織田軍に内通する旨を伝え長島に渡ります。長島に動きは見えませんでしたが、長島の兵糧の枯渇は早まりました。
9月29日
織田軍の兵糧攻めにより、飢餓に苦しむ長島の長島砦がついに降伏を申し出ます。織田信長はこれを許可。一揆勢は続々と長島から退去しようと小船に乗り込みまが、ここで織田信長が約束を破ります。長島城から出て小舟に乗り込む一揆勢に攻撃を仕掛けたのです。
約束を反故にされた一揆勢は最後の力を振り絞り織田軍に最後の抵抗を示します。一揆勢の捨て身の反撃に、織田軍にも約1000人のも犠牲者がでました。織田軍の戦死者の中には、織田信長の兄の織田信広、弟の織田秀成など織田一族も多く出たようです。一方で、長島の願証寺に籠った一揆勢は奮戦するも、織田軍の圧倒的な数を前に敵うわけもなく全員が討死しました。
その後、残る屋長島、中江の砦は織田軍により何重にも柵で囲まれ放火されます。織田信長は、屋長島、中江に籠る一揆勢を焼き殺したのです。