槇島城攻め:戦いで読み解く戦国史
槇島城攻めは、槇島城に籠城した足利義昭を織田信長が攻めることで生じた戦いです。槇島城攻めと前後の情勢について見ていきましょう。
槇島城攻めとは?
一度、織田信長に敵対するも失敗に終わった足利義昭は、約3ヶ月後に槇島城に籠城し織田信長に再度敵対。足利義昭が籠城した槇島城を織田信長が攻めることで起きた戦いが槇島城攻めです。
槇島城攻め以前の情勢
織田信長の支援によって念願だった征夷大将軍の座に就いた足利義昭は、織田信長と良好な関係を築けていました。しかし、次第に両者の関係は悪化し、1572年9月には織田信長が足利義昭に十七ヶ条の意見書を提出。これは、足利義昭を強く非難する文書でした。
一方で、甲斐(山梨県)の戦国の雄、武田信玄が遠江(静岡県東部)に侵攻。遠江を治めていたのは徳川家康で、織田信長の同盟者でした。織田信長は徳川家康の要請もあり援軍を派遣。しかし、三方ヶ原の戦いにて徳川・織田連合軍は武田軍に敗北。
武田軍の三方ヶ原の戦いでの勝利受けて、1573年2月足利義昭は武田信玄を頼り織田信長に敵対。しかし、武田軍は武田信玄の病状悪化により撤退を開始。これを知った織田信長は和睦を拒否する足利義昭の御所(居住地)、二条城を攻めることに。最終的には、天皇の命令に従う形で、織田信長と足利義昭は和睦を締結。
しかし、和睦成立後も足利義昭は不穏な動きを見せ続けます。そして7月には、二条城の守備を家臣の三淵藤央らに任せ、自身は槇島城に籠城し、再度織田信長に敵対するのでした。
槇島城攻め
1573年7月3日
足利義昭は家臣である槇島昭光の居城、槇島城に籠城し織田信長に敵対。足利義昭は槇島城が防戦に優れていると考えて籠城場所に選んだのでした。
7月6日
織田信長の下に、足利義昭が4月の講和後も不穏な動きを続けているという知らせが届いていました。そのため、織田軍の先鋒は足利義昭の挙兵から3日後には大津に着陣。
7月7日
織田信長は、佐和山城から大船に乗り出陣。足利義昭の挙兵に備え、迅速な移動ができるよう、以前から家臣で佐和山城主の丹長秀に琵琶湖を渡るための大船の建造を命じていたのです。そして、7月5日には大船が完成。大船で琵琶湖を渡った織田信長は、坂本で2泊します。
二条城包囲
7月8日~9日
8日には織田軍の先鋒が京に到着。一方、織田信長は先鋒が京に入った翌日、9日に京に入り妙覚寺に本陣を置きました。
7月10日
織田の大軍による包囲によって二条城内は大騒動。降伏を申し出る物が多数出現。しかし、守将を任されていた三淵藤央のみが、その責任からか徹底抗戦の姿勢を見せました。そこで、織田家の重臣。柴田勝家が二条城内に使者として赴き、三淵藤央を説得。しかし、三淵藤央もすぐには首を縦に振りません。
7月12日
ついに、三淵藤央も織田方の勧告に従い降伏。二条城を退去し、居城の伏見城へと撤退しました。その後、二条城は織田軍によって破却されます。
槇島城攻め
7月16日
/>二条城の破却を終えた織田軍の諸将は槇島城を攻めるために、宇治方面へ南下を開始。宇治、五ヶ庄に布陣し織田信長の到着を待ちました。
7月17日
織田信長は京を出陣し、諸将が布陣していた五ヶ庄に本陣を構えました。そして、諸将を二手に分けます。一手を平等院の近くに、もう一手を五ヶ庄の周囲に配置しました。
7月18日
平等院および五ヶ庄に布陣した織田軍は、午前10時頃に川を渡り中洲に上陸。槇島城に攻めかかりました。織田軍が中洲に上陸すると、瞬く間に城の防壁は破壊され火が放たれます。戦の様子を宇治山にて眺めていた織田信長は夕方には下山し諸将の戦いぶりを視察。
7月19日
槇島城はついに開城します。足利義昭は織田信長の降伏勧告に従い降伏したのです。織田信長が足利義昭の降伏を受け入れるための条件は以下でした。
槇島城攻め以後の情勢
槇島城から追放された足利義昭は、若江城の三好義継を頼って都落ちすることとなりました。足利義昭は若江城への退城後も、御内書を諸大名に発給し織田信長の討伐を要請。征夷大将軍としての権威で諸大名を動かし織田信長を討伐しようと目論みます。
一方で、織田信長は槇島城の開城から1ヶ月も経たないうちに、長年敵対関係にあった近江(滋賀県)の浅井長政の討伐に赴くのでした。