金ヶ崎の退き口:戦いで読み解く戦国史
金ヶ崎の退きの口は、織田信長が大敗した戦いですが、見事な撤退戦としても評価されています。ここでは、金ヶ崎の退き口の前後にも注目し、織田信長の決断力に迫ってみましょう。
金ヶ崎の退き口とは?
織田信長は朝倉義景を討伐するために、京から越前(福井県)を目指して進軍。しかし、朝倉領を攻めている最中で、北近江を支配していた同盟者の浅井長政が裏切ります。この知らせを受けた織田信長が、全軍に撤退を命じ朝倉軍との戦いになったのが金ヶ崎の退き口。
金ヶ崎の退き口以前の情勢
織田信長は足利義昭の上洛を支援、足利義昭は征夷大将軍に任命されました。そして、朝倉義景に上洛を要求。しかし朝倉義景はこれに応じません。そこで、織田信長は朝倉義景を敵と見なし、討伐の軍を起こします。
1570年、織田信長は徳川家康が派遣した援軍を伴い京を出発。5日後には、朝倉方の城天筒山城を攻撃。天筒山城は堅牢な山城でしたが、織田信長の号令のもと攻め落とすことに成功。翌日には、金ヶ崎城と疋田城が抵抗することなく開城しました。朝倉方は木の芽峠を防衛ラインにして、戦線の縮小を図ったのです、
同盟者の裏切り
朝倉攻めが順調な中、織田信長に同盟関係にあった北近江の浅井長政が裏切ったという知らせが届きます。織田信長は最初、誤報だと考えていたようですが、続々と届く裏切りの報に信じざるを得なくなりました。
浅井氏と朝倉氏は以前から、同盟関係にありました。織田信長と浅井長政が同盟した際も、織田側が無断で朝倉氏を攻めないという条項があったのです。今回の朝倉攻めはこの同盟を無視するものだったのです。
金ヶ崎の退き口
浅井長政の裏切りを確信した織田信長は、全軍に撤退を命令。この決断は、織田信長の名将ぶりが伝わるエピソードです。
この時点で、織田信長は朝倉軍に対し壊滅的被害を与えてはいません。つまり、このまま撤退すれば朝倉軍の追撃を受け味方には大多数の犠牲者が発生。一方で、直ちに撤退しなければ、織田軍は朝倉軍と浅井軍に挟撃され、織田軍は全滅。織田信長は最小限の犠牲で済む選択をしたのです。
織田信長は殿(撤退の最後尾)を、木下秀吉、池田勝正に任せました。金ヶ崎城に殿のみを残し、織田信長はいち早く京に引き返したのです。
織田信長は、朽木元綱の協力により敦賀、朽木を通りました。撤退を決意してから、わずか2日後には京に到着。供をしていたのは、10人ほどだったそうです。
一方で織田本軍も混乱することなく、素早く撤退。さらに、殿も多数の被害を出しながらも撤退に成功。統率の取れた退走と反撃を繰り返し、見事に朝倉軍の追撃を乗り切ったと言われています。また、一説では朝倉軍の追撃が甘かったとも。
金ヶ崎の退き口以後の情勢
大敗を喫したものの京にたどり着いた織田信長、何事も無かったかのように改修中だった御所を視察。その後、京を後にした岐阜城へと戻った織田信長は、裏切り者浅井長政と戦うための準備を開始。約1カ月後には、浅井長政との戦いのために再度出陣。姉川の戦いへと続きます。
また、上洛戦で取り逃がした六角承禎・六角義治が南近江でゲリラ戦を展開。織田信長はこの鎮圧と、南近江への家臣配置も実行しました。