姉川の戦い:戦いで読み解く戦国史
姉川の戦いは、織田信長が浅井・朝倉連合軍を撃破した有名な戦いです。しかし、姉川の戦いが浅井・朝倉滅亡の原因になったわけではありません。ここでは、姉川の戦いの前後の情勢も含め見ていきましょう。
姉川の戦いとは?
姉川の戦いは織田信長・徳川家康の連合軍が、浅井長政・朝倉景健連合軍を撃破した戦いです。姉川の戦いは、非常に有名な戦いですが、それ故に誤解されていることの多い戦いでもあります。以下がその誤解です。
- 浅井氏・朝倉氏の滅亡原因
- 徳川家康が勝利の立役者
一つ目ですが、姉川の戦い以降も織田信長は浅井氏・朝倉氏による侵攻に手を焼いています。この後、浅井氏、朝倉氏は信長包囲網の一角を形成するのです。
二つ目ですが、徳川家康が天下を統一した後に、徳川家康を神君化させようとして作成された書物の内容を真に受けて広まりました。実際は、織田軍、徳川軍がそれぞれ活躍して勝利を収めたのです。
姉川の戦い前後の情勢をまとめておきます。
姉川の戦い以前の情勢
織田信長は約1カ月半前、朝倉氏を攻めた際に、同盟者だった浅井長政の裏切りに遭います。そして、朝倉攻めの中止に追い込まれ、撤退戦により織田には多数の犠牲者が出ました。
岐阜城に戻った織田信長は、浅井長政への報復と近江(滋賀県)支配を準備。軍備を整えつつ、有力家臣を近江に分封して支配体制の構築を目指しました。
一方で、浅井長政は美濃(岐阜県南部)と近江(滋賀県)の国境に長比城、苅安城を築き、鎌刃城に掘秀村を配置。織田信長の侵攻に対し、防備を固めたのです。
しかし、織田信長の家臣、木下秀吉(後の豊臣秀吉)の与力竹中半兵衛の調略で堀秀村が織田方に寝返り。この知らせを聞き、織田信長は出兵を決意。
姉川の戦い
6月23日(姉川の戦い5日前)
1570年6月19日、織田信長は居城の岐阜城を出て北近江(滋賀県)へ出陣。長比城、苅安城の浅井勢は城を退去。2日後の6月21日には、織田信長は浅井長政の居城、小谷城を見渡せる虎御前山に布陣。家臣に命じて城下に放火させました。
小谷城を落とすのは困難だったため、織田信長は支城の横山城を攻めるために軍を移動。織田軍の殿(退却の最後尾を担う軍)を浅井軍が攻撃するも、これを撃退。織田信長は竜ヶ鼻に本陣を移動しました。
6月27日(姉川の戦い1日前)
織田軍は、横山城を包囲。横山城の守将は大野秀治。横山城包囲から3日後、徳川家康率いる援軍が織田軍に合流しました。
一方、ここまで目立った動きのない浅井長政ですが、唯城に籠っていたわけではありません。朝倉義景に援軍を要請していたのです。徳川家康の援軍が到着した頃、朝倉景健が率いる援軍が到着。浅井長政も出陣しました。そして、大依山に布陣。
6月28日(姉川の戦い当日)
浅井・朝倉連合軍は夜陰に紛れ、姉川の北岸に移動。浅井軍は野村に、朝倉軍は三田村に布陣。織田・徳川連合軍の背後を脅かし横山城の包囲を解かせます。
織田信長は小谷城の城下を放火しても、浅井長政が攻勢に出なかったことから、浅井長政の出陣は予想していなかったようです。そのため、織田信長は有力家臣を撤退させていた模様。
有力家臣を撤退させていても、織田・徳川連合軍は間近に迫った浅井・朝倉軍とは戦わざるを得ません。織田・徳川連合軍は織田軍が浅井軍、徳川軍が朝倉軍と向かい合うよう陣を敷きました。
最初に、朝倉軍と徳川軍が激突。朝倉軍が押すも、朝倉軍の側面に榊原康政の部隊が突撃。一方で徳川の本軍も奮闘。
続いて野村に布陣していた浅井軍も動きます。先鋒の磯野員昌の軍勢は、織田軍を散々に打ち破ります。一説によれば、織田軍が構えた13段の陣の内、11段まで切り込んだど言われています。
しかし、稲葉一鉄と氏家直元らの軍勢が浅井軍の側面に攻撃すると浅井軍は劣勢に。朝倉軍も徳川軍の攻撃に耐えられなくなります。
そして、敗走し始めた浅井・朝倉連合国を、織田・徳川連合軍が追います。戦いは追撃戦に移行し、浅井・朝倉軍には多数の犠牲者が発生。織田・徳川連合軍は小谷城がある山の麓に放火。しかし、これ以上は追わずに撤退。
姉川の戦い以降の情勢
浅井氏、朝倉氏は大敗するも、織田・徳川連合軍が深く攻め入ることがなかったので、勢力は維持。一方で、織田信長が京を留守にしたため、阿波(徳島県)に逃げていた三好三人衆が畿内(京周辺)に上陸。攻勢を仕掛けます。この後、浅井氏と朝倉氏は畿内に戻った三好三人衆や石山本願寺と協力し信長包囲網を形成。