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野田・福島の戦い:戦いで読み解く戦国史

野田・福島の戦いは、三好三人衆石山本願寺を引き込み、織田信長に勝利した戦いです。この戦いを機に、有名な石山戦争が始まります。

野田・福島の戦いという文字と灰色の背景

野田・福島の戦いとは?

野田・福島の戦いの勝敗の結果と起きた場所を示す図

1570年7月21日、三好三人衆足利義昭織田信長から京を奪回することを目的に、摂津に侵攻し生じた戦いです。石山本願寺が、三好三人衆に味方し優勢になります。

三好三人衆方は侵略地の維持に成功。三好三人衆の勝利と考えてよいでしょう。

野田・福島の戦いの前後の状況をまとめておきます。

野田・福島の戦い前後の情勢

以前

織田信長姉川の戦いに勝利し、岐阜に滞在

三好三人衆は摂津の池田氏を調略

以後

織田信長は朝倉氏・浅井氏との対峙のため撤退

三好三人衆は侵略地を維持も更に侵攻できず

石山本願寺とな織田信長の敵対開始

三好三人衆は解体されていた

野田・福島の戦いを語る上で、注意しておくことが一つあります。それは、三好三人衆といいつつ、3人が揃っていないことです。

三好三人衆と言われるのは、以下の3人です。

野田・福島の戦いにおける3人の状況は以下のようになっています。

このように、野田・福島の戦い時点では、三好三人衆は解体されていたのです。ただし、三好宗渭の跡を継いだ三好為三は、当初は三好三人衆方として参戦しています。三好三人衆と言いつつ、3人が揃っていないことには注意してください。

野田・福島の戦い以前の情勢

摂津池田城の内紛を示す図

三好三人衆は一時期、畿内の実力者に登り詰め、京を支配していました。しかし、1568年、織田信長畿内に入ると畿内から追放。三好三人衆は、三好家の本拠地、阿波(徳島県)に逃れ反撃の機会を窺っていたのです。

1570年6月、摂津の池田勝正の一族である池田知正、家臣の荒木村重三好三人衆の調略を受けます。2人は池田城から当主、池田勝正を追放。池田勝正は摂津の国人(地元の有力者)で、足利・織田陣営として摂津統治の一翼を担っていました。

摂津の池田氏の調略に成功した三好三人衆は、これを好機と見て1万3000の兵を率いて阿波(徳島県)を出航。摂津を目指しました。織田信長が京ではなく、岐阜にいたこともチャンスでした。

野田・福島の戦い

7月21日頃

三好三人衆による野田城、福島城の築城を示す図

7月21日頃摂津の中島城に入った三好三人衆は、野田砦・福島砦を構築。要所である尼崎との交通を絶ちました。これに対し、京の足利義昭畿内の諸将に討伐を命じるとともに、岐阜城にいた織田信長に知らせます。

8月17日~26日頃

野田・福島周辺での織田信長の布陣を示す図

8月17日、三好三人衆は、三好義継・畠山昭高が守る古橋城を攻略。その勢いで榎並城も攻略してしまいます。これにより事態を重く見た織田信長は、3000の兵を率いて岐阜城を8月20日に出発。織田信長は京で、三好義継、松永久秀、幕府奉公衆と合流。8月26日には4万の兵を率い天王寺に着陣。織田軍は、天満森・川口・渡辺・神崎・難破に布陣しました。

9月3日頃

足利義昭が中島城に入った様子を示す図

野田城、福島城は大阪湾の河口にある中洲に築かれた城であったため、無理に城に押し入れば味方に多くの犠牲者が生じます。そこで、織田信長は調略を仕掛けました。これにより、和久宗是・三好為三・香西信良・塩田氏などが降伏。このよう中で、足利義昭が、9月3日に細川藤孝が守る中島城に到着。

9月8日

松永久秀、三好義継による浦江城への攻撃を示す図

さらに、織田信長は楼岸砦、川口砦を構築。9月8日に三好義継・松永久秀に浦江城を攻略させました。その後、織田信長は浦江城も、野田城・福島城を攻めるための城として活用。

9月12日

織田軍による野田城・福島城への攻撃を示す図

9月11日になると織田信長は、野田城、福島城への攻撃を開始。両城を攻めるにあたり、織田信長は川を埋め、城の周囲に櫓を建てています。翌日には、織田信長の味方として雑賀衆根来寺・湯川衆・奥群衆2万が3000丁鉄砲を持って、遠里小野、住吉、天王寺に着陣。鉄砲巧者の集団として有名だったのです。織田信長は大量の鉄砲を城方に撃ちこませました。

織田軍の攻撃に耐えられなくなった三好三人衆は、9月12日講和を申し出ます。しかし、織田信長はこれをし、徹底的に叩く算段だったのです。

9月12日夜

石山本願寺による川口砦、楼岸砦への攻撃を示す図

しかし、同日の夜状況は一変します。野田城、福島城から見て南東に位置した石山本願寺が突如として蜂起。一向一揆の信徒が出陣し、織田軍が利用していた楼岸砦、川口砦に鉄砲を撃ちかけたのです。実は、三好三人衆方は密かに本願寺と粘り強く交渉を重ね、味方にすることに成功したのでした。

9月13日

石山本願寺による防堤の破壊で淀川の氾濫を示す図

石山本願寺は織田軍が造った防堤を決壊させたため、野田城、福島城を攻めるために築いていた砦や櫓、浦江城が海水に浸かります。また夜には、石山本願寺の住職(ボス)顕如自ら織田本陣に攻めかかったとも。翌日、翌々日は水が引かなかったため、戦闘行われていません。

9月16日

織田信長三好三人衆本願寺連合軍が対立している中ですが、近江(滋賀県)に目を向けて見ます。織田信長は、約4ヶ月前から小谷城浅井長政一乗谷朝倉義景と敵対関係にありました。織田信長が、攻めあぐんでいる間に浅井長政朝倉義景が、近江(滋賀県)の志賀郡に攻めてきました。

9月23日

9月20日に、織田信長明智光秀村井貞勝を京を守るために戻すとともに、柴田勝家に志賀郡の戦局を視察させるために派遣。2日後、柴田勝家の視察報告により織田信長は撤退を決意。9月23日織田軍は撤退しました。

本願寺が動いた理由

石山本願寺は古くから、周囲に寺内町と呼ばれる町を形成し、自治組織が運営を行い、税金の免除などの特権が認められていました。しかし、織田信長はこの特権を認めず、本願寺から軍事費を徴収し、さらには石山の土地の退去を命じていたのです。

石山本願寺が一方的に不利な立場に立たされていることを知った三好三人衆は、本願寺を味方にするために地道な交渉を重ねていたのです。三好三人衆は、寺内町の特権を認め、さらに富田林、野原野潟への建設の支援を約束したのです。

野田・福島の戦い以後の情勢

織田信長と三好三人衆の和睦を示す図

摂津から撤退した織田信長は、近江(滋賀県)の志賀郡で、浅井長政朝倉義景と対峙することになります。この対峙は志賀の陣と呼ばれ、大規模な戦闘は行われず約3ヶ月間両軍は睨み合うこととなりました。

一方で、三好三人衆方には阿波三好家からの援軍がやってきます。援軍を率いたのは、阿波三好家の当主、三好長治と重臣の篠原長房らでした。援軍を得て三好三人衆は、京に向けたさらなる侵攻を匂わせます。しかし、足利義昭の家臣和田惟政がこれを防ぎます。三好三人衆は、援軍を得ても絶対的な戦力不足だったのです。

最終的に、織田信長三好三人衆は、松永久秀の慎重な交渉によって、12月14日に和睦が成立。これにより、しばらく三好三人衆織田信長の間は小康状態となります。一方で、石山本願寺は、野田・福島の戦い以降、織田信長と約10年間対立を続けるのでした。