りけイノシシのweb武将名鑑

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石山砦・今堅田砦の戦い:戦いで読み解く戦国史

石山砦・今堅田砦の戦いは、足利義昭織田信長に敵対して起きた戦いです。両者の争いの前哨戦に位置付けられます。

石山砦・今堅田砦の戦いという文字と灰色の背景

石山砦・今堅田砦の戦いとは?

石山砦・今堅田砦の戦いの結果を示す図

石山砦・今堅田砦の戦いとは、織田信長足利義昭が敵対したことで起き戦いです。足利義昭は敵対を決めると、いち早く織田信長の勢力圏の、明智光秀が統治する近江(滋賀県)志賀郡に山岡景友を派遣し石山砦・今堅田砦を構築させました。これに対抗して、織田信長柴田勝家明智光秀丹羽長秀・蜂屋頼隆を現地に派遣し戦いとなりました。

石山砦・今堅田砦の戦い以前の情勢

織田信長、足利義昭、武田信玄の関係性を示す図

1572年になると織田信長足利義昭は、あからさまに対立するようになり、織田信長足利義昭に十七ヶ条の意見書を提出。ところが、甲斐(山梨県)の武田信玄徳川家康の領地である遠江(静岡県東部)に侵攻。三方ヶ原の戦いにて、徳川家康率いる軍勢、織田信長が派遣した援軍に完勝。武田信玄の勝利を受けた翌年、旗幟を鮮明にしていなかった足利義昭織田信長に対して敵対するのでした。

石山砦・今堅田砦の戦い

石山砦の戦い

石山砦の戦いの結果と起きた場所を示す図

2月13日

足利義昭織田信長に敵対姿勢を表明すると、山岡景友(当時は光浄院暹慶)を指揮官として近江(滋賀県)の志賀郡に攻め込ませます。志賀郡は織田信長の家臣となっていた、明智光秀が統治を任されていました。

近江志賀郡に入った山岡景友は、磯谷久次、渡辺昌らと合流。そして、石山と今堅田に砦を構築し始めました。磯谷久次、渡辺昌らは、明智光秀の与力(直属の家臣ではないが普段は明智光秀に従う)でしたが、足利義昭の家臣でもあるという立場だったのです。

このような動きに対し、織田信長柴田勝家明智光秀丹羽長秀・蜂屋頼隆に鎮圧を命じました。

2月24日

柴田勝家明智光秀丹羽長秀・蜂屋頼隆が率いる軍勢石山砦を攻撃。石山砦を守備していたのは山岡景友に加え甲賀衆・伊賀衆の援軍。兵数の違いに加え、石山砦は建造途中であったこともあり、2日後には開城。織田軍は石山砦を破却しました。

堅田砦の戦い

今堅田砦の戦いの結果と経緯を示す図

2月29日

続いて、織田軍は今堅田砦を攻めます。今堅田砦には、磯谷久次・渡辺昌らが籠っていました。今堅田砦は琵琶湖の湖畔にあったこともあり、明智光秀は水軍を率い進軍。一方で、丹羽長秀・蜂屋頼隆は陸路を北上。柴田勝家は石山砦に留まりました。

織田軍の猛攻により、今堅田砦は落城。しかし、この戦いで明智光秀も配下の将兵を失います。織田方にも少なからず損害が出たのでした。

このように、いち早く近江志賀郡への侵攻を目論んだ足利義昭ですが、織田信長の素早い対応により返り討ちに遭ったのです。織田信長足利義昭の争いにおける前哨戦は、織田信長の勝利に終わるのでした。

石山砦・今堅田砦の戦い以後の情勢

織田信長と足利義昭の和睦が破談になった様子を示す図

石山砦・今堅田砦の戦いは織田軍の勝利に終わりましたが、織田信長足利義昭を屈服させたわけではありません。あくまで前哨戦です。

その後、織田信長足利義昭との和睦を希望し譲歩を重ね締結目前までたどり着きまた。しかし、締結寸前で足利義昭が和睦を拒否、選択肢のなくなった織田信長は御所(足利義昭の居住地)二条城攻めを決意したのでした。

二条城攻め:戦いで読み解く戦国史

ちなみに、足利義昭が頼りにした武田信玄は、2月17日に体調を崩し、自領に向けて撤退しています。