織田信長の上洛戦:戦いで読み解く戦国史
織田信長は、上洛(京に上ること)の支援を何度も足利義昭に求められていました。ここでは、織田信長の上洛戦について紹介しています。
上洛戦とは?
足利義昭からの上洛援助の要請に応え、織田信長は足利義昭の上洛のためのルート確保を行いました。近江(滋賀県)南部に勢力を張っていた、六角氏と戦ったのです。ここでは、足利義昭が京に入るまでに行った織田信長の一連の戦い上洛戦と呼ぶことにします。
上洛戦以前の情勢
織田信長は足利義昭に再三の上洛支援を要請されるも、美濃攻めで手一杯でした。しかし、稲葉山城の斎藤龍興を追放し美濃を平定すると、上洛する際の安全を確保するために、伊勢(三重県の一部)北部を平定。足利義昭を岐阜に迎え、上洛のためのルート確保へと移ります。
織田信長は上洛に際して、近江を経由するルートを選択。南近江に勢力を持っていた六角氏に上洛への協力を依頼。しかし、六角承禎がこれを拒否したため、織田信長は力づくでルートの確保に出ます。
一方で、当時の京の有力者は三好三人衆(三好長逸、三好宗渭、岩成友通)。しかし、三好三人衆は松永久秀、畠山高政、三好義継、根来寺らと対立していました。
上洛戦
意外かもしれませんが、足利義昭は上洛戦には参加していません。織田信長が上洛のルートを確保するまで、岐阜で待っていました。織田信長は六角承禎の討伐のため、尾張(愛知県西部)、美濃、北伊勢、三河(愛知県東部)の兵を動員。その人数は4万〜5万。そして。美濃の平尾村に布陣。
その後、織田信長は、近江の高宮に移動。ここで、同盟関係にあった徳川家康から派遣された松平一忠、義弟の浅井長政らが率いる軍勢と合流。そして、愛知川に軍を進めました。
六角氏は、その支配地に広がる山々に築いた支城に籠城。相手の兵力を各城に分散させ、各城が連携しながら戦う作戦をとりました。これに対し、織田信長は自ら戦場を視察。敵が箕作山城と和田山城に主力を分散配置していることを見抜きます。そこで、和田山城、観音山城に抑えの兵を置き、箕作山城に総攻撃を命じました。
織田方の佐久間信盛、木下藤吉郎(後の豊臣秀吉)、丹羽長秀、浅井新八は箕作山城に猛攻を掛けます。守将の吉田出雲守は一日も経たずに降伏開城。これにより、和田山城も戦わず降伏。
翌日、織田信長は六角承禎・義治の父子が籠る観音山城を攻めようとします。すると、六角父子は、戦う前に城を捨て逃亡。
上洛戦以後の情勢
六角氏を追い払ったことで、上洛への道筋を確保した織田信長は、足利義昭を迎えに岐阜の立政寺へ不破光治を派遣。その後、足利義昭は近江を経由して無事に上洛を果たしました。
しかし、六角義賢・義治父子が観音山城から逃亡し滅ぼせなかったために、南近江の諸勢力は降伏する者と抵抗する者に分かれてしまいます。その結果、南近江では六角氏やその家臣との小規模な戦いが続くことに。
京では織田信長が大軍を率いて上洛するという噂が立ちパニックに陥っていました。実際、天皇は天下静謐を願った祈祷まで行なっています。三好三人衆は織田信長が足利義昭を伴い、上洛するという知らせり受け、京から脱出。京の様子を耳にした織田信長は、京の市内には入らず、東寺に在陣。