丹波攻め:戦いで読み解く戦国史
丹波攻めは、明智光秀が織田信長に命じられて行った丹波平定に関する一連の戦いのことを指します。ここでは、明智光秀が行った丹波攻めに関して解説しています。
【麒麟がくるの主人公】明智光秀の生涯を図で解説:web武将名鑑
- 丹波攻めとは?
- 丹波攻め前の情勢
- 丹波攻め
- 第一次黒井城の戦い
- 亀山城の戦い
- 八上城の戦い
- 細工所城の戦い
- 氷上城の戦い
- 宇津城の戦い
- 鬼ヶ城の戦い
- 第二次黒井城の戦い
- 横山城の戦い
- 丹波攻め後の情勢
丹波攻めとは?
丹波(京都府中部、兵庫県北東部、大阪府北部)は京に近いため、古くから丹波の情勢は、京の政治や治安に大きな影響を及ぼしていました。織田信長は敵対した足利義昭を支持する丹波の勢力を排除することを目的に、丹波に攻め入ることを決意。
織田信長は丹波攻めの指揮官を明智光秀に任させたのです。明智光秀が、丹波平定をするために行った戦いを総じて丹波攻めと言います。
丹波攻め前の情勢
足利義昭は織田信長の助けを借りて上洛し、征夷大将軍に就任しました。その後、足利義昭と織田信長は、共同で統治を行いますが、次第に両者の意見が食い違うようになります。
そして、1572年ついに足利義昭は挙兵しますが、翌年には織田信長に降伏しました。しかし、その約3ヶ月後に再び挙兵するものの、再び織田信長に降伏し京都を追放されてしまったのです。足利義昭の追放以降、丹波に所領を持つ国人衆(武士)は、足利派と織田派に分かれて徐々に対立するようになりました。
このような状況を受けて、織田信長は家臣に命じて明智光秀を丹波に攻め入らせます。明智光秀が丹波攻めの指揮官に選ばれたのは、指揮官としての能力だけでなく、京での立ち回りに明るかったことも考慮されたからだと考えられます。
丹波攻めの前に、明智光秀には、由緒正しい「惟任」の姓と、「従五位下日向守」という官位が与えられ、丹波に攻め入るための正当性も付与されました。
丹波攻め
丹波攻めは、明智光秀が抵抗する丹波の諸将を次々と攻めていくことで行われました。以下では、丹波攻めに含まれる主な戦いとその勝敗について説明しています。
第一次黒井城の戦い
1575年10月に明智光秀は居城の坂本城を出立します。これと同時期に、織田信長は丹波の国衆に自身に味方すれば、領地を保証することを書状で知らせていました。そのため、明智光秀は抵抗らしい抵抗を受けずに、丹波に侵攻することができました。
そして、明智光秀は、以前から敵対姿勢にあった赤井(荻野)直政が籠る黒井城を包囲します。戦況は順調でしたが、包囲から2ヶ月後、攻城側にとっては予想外なことが生じました。
織田方に従っていた八上城の城主波多野秀治が裏切ったのです。想定外の裏切りに合い、明智光秀は大敗を喫し、坂本城で撤退しました。これにより、一度目の丹波攻めは頓挫する結果となったのです。
亀山城の戦い
1576年1月の、黒井城の戦いで明智光秀が敗れてから、一時丹波攻めは中止されました。丹波攻めを一旦停止した原因には、石山本願寺との戦いに追われたという理由もありました。
このような中で、1577年10月丹波亀山城の内藤定政が亡くなりました。そのため、幼い定政の息子が亀山城の城主となります。織田信長はこれを好機と見て、明智光秀に亀山城を攻めさせます。丹波攻めを再開したのです。
亀山城では幼い内藤定政の息子の代わりに、家老の安村次郎右衛門が防戦の指揮をとりました。明智軍は、三日三晩に渡って猛攻を仕掛けた結果、亀山城側は降伏します。明智光秀は、内藤氏を赦免し家臣団に迎え入れました。
その後、明智光秀は亀山城を丹波攻めの拠点とするために、大規模な改修を行います。
八上城の戦い
1578年3月、明智光秀は第一次黒井城の戦いで裏切った波多野秀治が籠る、八上城を包囲します。八上城は、高城山(460 m)と法光寺山(360 m)に築かれた堅牢な山城でした。そこで、明智光秀は城の周囲を柵や濠で取り囲み、兵站を絶つ長期戦を選択します。
明智光秀は八上城の包囲を終えた後、支城の細工所城を攻め取り、神吉城攻めや有岡城攻めに駆り出されました。
一方、八上城で抵抗する波多野秀治は、黒井城の赤井氏、三木城(兵庫県)の別所長治や、有岡城(兵庫県)の荒木村重、中国地方の毛利氏との連携を図ったと言われています。しかし、明智光秀の築いた包囲網は強固で、八上城では餓死者が続出したのです。
1579年になると、明智光秀自身も丹波攻めに専念にできるようになりました。そして、支城の氷上城が落城させられたことを契機として、波多野秀治ら兄弟は降伏します。その後、波多野秀治兄弟らは安土に護送され磔刑に処さたのです。
細工所城の戦い
細工所城は八上城の支城として、波多野家の家臣である荒木氏綱が守っていました。
八上城を包囲した後に、本願寺攻めの援軍に派遣された明智光秀は、その帰りに滝川一益、丹羽長秀らの加勢を得て、細工所城を攻撃します。
これに対し、荒木氏綱は、城の守りを固め打って出ることはしません。そこで、明智光秀は城への水の手を断つ作戦にでました。すると、城方は水の補給に困り、荒木氏綱は城を捨てて撤退したのです。
その後、明智光秀は細工所城を家臣に守らせました。この後、明智光秀は、神吉城攻め、有岡城攻めに援軍として派遣されることになります。
※注意※
「荒木氏綱が守備していた城は、園部城である」というような記述を度々見ますが、これは『籾井家日記』という史料が出所になっています。しかし、『籾井家日記』は信憑性に欠ける史料です。現在では、細工所城が荒木氏綱の居城と考えられています。
氷上城の戦い
神吉城攻め、有岡城攻めから戻った、明智光秀は丹波攻めを本格化させます。明智光秀は八上城の支城の一つでの氷上城に軍を向けました。氷上城の城主は波多野氏庶流である波多野宗長と息子の波多野宗貞でした。
明智光秀と細川藤孝は氷上城を包囲しようとします。すると、波多野宗長と宗貞父子は城から打って出ました。その結果、両軍は八幡山で衝突することになります。波多野宗長と波多野宗貞はこの戦闘に敗れ氷上城に逃げ帰りました。
最終的に、明智・細川軍は氷上城を包囲することに成功し、波多野宗長と宗貞父子は自害し氷上城は落ちました。氷上城の落城により、八上城に籠る波多野秀治も抵抗する意思を失い降伏したと言われています。
宇津城の戦い
波多野氏の本拠地である八上城を落とした多紀郡を平定した明智光秀は、宇津頼重の居城である宇津城を攻めます。1579年の7月に明智軍は宇津城を包囲しました。すると7月19日に宇津頼重は、城から逃亡し行方を眩ませます。これにより、明智光秀は宇津城の攻略を達成したのです。
余談ですが、宇津頼重は朝廷の領地を無断で占有していました。宇津頼重の遁走により、占有されていた失地を回復した朝廷は明智光秀に褒章を送ったのです。
鬼ヶ城の戦い
明智光秀は、宇津城を攻略した後、鬼ヶ城に軍を向けます。鬼ヶ城は、黒井城の属城で、赤井直正の弟、赤井幸家が守っていました。明智光秀は、無理な城攻めはせず、付城を築いて鬼ヶ城を包囲する作戦に出ます。これ以降の、鬼ヶ城攻めに関する史料は発見されていません。現在のところ、黒井城と同時期に落城したと考えられています。
第二次黒井城の戦い
丹波の大部分の平定を終えた明智光秀は、1579年7月下旬に、一度大敗を喫した黒井城を攻めました。明智光秀が敗れた当時の城主は赤井直正でしたが、前年に亡くなっており、息子の赤井直義が城主になっていました。しかし、赤井直義は幼少であったため、叔父の赤井幸家が代理で防戦の指揮をとりました。
しかし、丹波に味方がいなくなったこともあり、8月9日に赤井直義と赤井幸家は城を焼き逃走したのです。
横山城の戦い
黒井城を落とし丹波の一大勢力であった赤井氏が逃亡した後、明智勢の矢島刑部、朽木久兵衛、加上弥右衛門、四王天政春、林半四郎らは横山城攻めに取りかかります。城主の塩見信房は赤井氏に従い第一次黒井城の戦いで、明智光秀に敵対していました。しかし、黒井城の赤井氏が逃亡してしまったこともあり、塩見信房は自害し横山城は明智方の手に渡ったのです。
丹波攻め後の情勢
織田信長は丹波攻めにより得た領土を、明智光秀に与えます。明智光秀は、丹波と近江滋賀郡の統治を任されることになったのです。さらに、織田信長は丹後を与えられた細川藤孝と、大和の支配を認められた筒井順慶、近江高島郡を与えられた津田信澄、山城北部の領主達を明智光秀の与力(よりき)としました。
これにより、明智光秀は織田家臣の中で、畿内最大の勢力となったのです。明智光秀の勢力圏は、織田信長の本拠地、安土にも近かったことから、織田信長の明智光秀への信頼も窺い知れます。