北伊勢攻め:戦いで読み解く戦国史
北伊勢攻めは、織田信長が北伊勢の中小領主を従えるために行いました。北伊勢攻めにとその前後の情勢について見ていきましょう。
北伊勢攻めとは?
織田信長が足利義昭の上洛(京に上ること)を支援するための、地ならしとして、伊勢(三重県の一部)北部に侵攻しました。それらの戦いを総称して、ここでは北伊勢攻めと呼ぶことにします。
北伊勢攻め以前の状況
足利義昭は度々織田信長に上洛の支援を要請。織田信長は美濃(岐阜県)攻めの最中でしたが、将来の上洛に備え、家臣の滝川一益を伊勢の桑名に派遣し、支配下に置きました。桑名は港町であり、北伊勢攻めの足掛かりにしようとしたのです。
当時の北伊勢の支配体制は、以下のようになっていました。小領主が乱立した桑名郡、員弁郡、朝明郡、三重郡。同族の関氏・神戸氏が支配する鈴鹿郡、河曲郡。長野氏が支配する安濃郡。奄芸郡には、関氏・神戸氏と長野氏の勢力が存在していました。
北伊勢諸氏との戦い
美濃攻めから1カ月も経たずに織田信長は、北伊勢に出陣。滝川一益に制圧させた桑名を経由し北伊勢に侵攻しました。
北伊勢の桑名郡、員弁郡、朝明郡、三重郡には小規模な領主が乱立している状態でした。織田信長が滝川一益を主導として、これらの地域に侵攻すると、諸氏の多くは抵抗することなく降伏。瞬く間に4郡の大部分を降したのです。
高岡城攻め
4郡を降した織田信長は、神戸氏との戦いに移ります。神戸城の支城、高岡城を包囲。高岡城は神戸氏の家老、山城弾正が城主を務めていました。
織田軍は城下を焼き払い攻撃を加えるも、城方の抵抗に遭い一向に落城の気配がありません。美濃を平定して間もない織田信長は、美濃の情勢を懸念し撤退を決意。高岡城は織田信長の撃退に成功しました。
北伊勢諸氏との戦い2
高岡城攻めから約半年、美濃の支配体制を確立した織田信長は、北伊勢攻めを再開。以前と同様に桑名郡、員弁郡、朝明郡、三重郡の4郡の諸氏は、直ちに織田信長に服属しました。
神戸・関氏との戦い
続いて織田信長は神戸氏を攻めます。神戸具盛は縁戚である関氏とともに抵抗姿勢を示していましたが、織田軍に神戸城を包囲されると降伏を申し出ます。織田信長の三男、信孝を婿養子として神戸氏の家督を譲ることを条件に、降伏が認められました。
織田信長は前年落とせなかった高岡城を包囲していましたが、今回も攻略できませんでした。しかし、主君の神戸具盛が降伏したことから、高岡城の山路弾正も降伏したと考えられます。また、縁戚にあたる亀山城の関盛信も降伏したと考えられます。
長野氏との戦い
神戸氏を降した織田信長は南下。長野氏との戦いとなります。織田信長は長野氏の属城、安濃城を攻めます。安濃城に籠っていた細野藤敦は織田信長に対し抗戦姿勢を見せていました。
ところが、細野藤敦の弟、分部光嘉が、長野家の当主で長野城主である長野具藤を長野城から追放。織田信長に降伏を申し出ます。なぜなら、長野具藤は伊勢南部の北畠氏からきた養子で、命を懸けてまで仕える相手ではなかったからです。
先代の長野家当主、長野藤定が北畠氏からの圧力に屈服し、北畠氏から養子を迎え長野家の家督を譲ることを渋々認めされられました。そして、長野家当主となっていたのが長野具藤でした。
織田信長は、長野家の家督を織田信長の弟信包に継がせることを条件に降伏を認めました。こうして、抵抗する意味がなくなった安濃城も織田信長に降伏。織田信長を労せず長野氏を降しました。
北伊勢攻め後の情勢
北伊勢を平定したことで、織田信長は上洛をする際に背後を脅かされる可能性を低減することに成功。北伊勢の諸領主は、織田信長につき従います。そして、畿内の諸勢力と協力のもと足利義昭の上洛を実現に邁進するのです。