りけイノシシのweb武将名鑑

武将や、武士の時代の戦いについて紹介するブログです。日本史の面白さが伝わるような活動を心がけます。

長島侵攻:戦いで読み解く戦国史

長島侵攻は織田信長が、伊勢(三重県北部)長島に侵攻することで生じた一連の戦いのことです。ここでは、織田信長の長島侵攻の流れを追っていくことで、伊勢長島侵攻について見ていきましょう。

長島侵攻という文字と灰色の背景

長島侵攻とは?

長島侵攻を説明するための図

長島侵攻は織田信長が、長島を攻めたことで生じた戦いです。織田信長はその生涯で合計4度長島を攻めています。ここでは、織田信長が長島を攻めた軍事行動を総称して、長島侵攻ということにします。

最初の長島侵攻は残りのものと目的は異なるものの、織田信長は長島攻めで3度苦杯をなめさせられています。織田信長が長島攻めで苦戦した原因の1つが、長島の地形にあります。

長島は河口にある島

戦国時代の長島一帯の地形と城砦の配置を示す図

「長島」は木曽川長良川揖斐川の3つの川が合流する河口にある複数の中洲のことです。

木曽三川と呼ばれる3つの川が合流することからも推測できるように、当時の川幅は非常に大きく、河口の中洲は河口に浮かぶ島のようでした。さらに、複数の中洲同士が互いに連携していたこともあり、1つずつ順番に攻略することも困難だったのです。

このように、大軍を擁しても攻略することは難しく、長島は守る側に有利な地形でした。織田信長の父の織田信秀も、長島の手前にある津島までは支配下に収めましたが、長島には手を出しませんでした。このことからも分かるように、長島は難攻不落の土地として認識されていたのです。

※しかし、残念なことに長島があった地域は、その後の開発により現在では大きく環境が変化しました。そのため、多くの当時の地名の示す場所が明らかになっておらず、当時の長島や長島侵攻については謎が多いです。本記事でも現時点での推測を元に紹介していきます。

第0次長島侵攻(斎藤龍興を追って)

稲葉山城攻めの勝敗とその後の斎藤龍興の逃亡先を示す図

1567年8月

織田信長が初めて長島に兵を向けたのが、稲葉山城(後の岐阜城)を落とした直後でした。美濃(岐阜県南部)を支配していた斎藤龍興が、織田軍の包囲に耐えられなくなり居城の稲葉山城を捨て船で川を下り長島に逃亡。

美濃攻め

織田信長は、斎藤龍興を追って長島を攻めますが失敗に終わったのです。長島を攻め落すことが困難だと考えた織田信長は長島攻略をあきらめ、伊勢(三重県北部)の北部に侵攻。足利義昭の上洛(京に上ること)を実現させるための、背後の安全を確保しようしたのです。

北伊勢攻め

第1次長島侵攻(VS 長島一向一揆)

野田・福島の戦いの最中に、石山本願寺織田信長に対し敵対を表明。石山本願寺の住職である顕如が、全国の一向宗の寺に向けて織田信に対し蜂起するよう書状を送りました。

野田・福島の戦い

1570年11月21日(小木江城の戦い)

長島一向一揆が小木江城を攻撃していることを示す図

これを受けて、長島の願証寺石山本願寺からの書状を受けてが蜂起。ここに、長島一向一揆が勃発します。織田信長の弟、織田信興が在城した小木江城を、一揆勢が襲撃。

小木江城は1565年に、長島と服部党を監視するために織田信興によって築かれた城でした。織田信長は長島の監視を弟の信興に一任していたのです。

一揆勢が小木江城を襲撃した際、織田信長は志賀の陣の最中でした。浅井長政朝倉義景比叡山延暦寺との対峙中で援軍を派遣できません。これにより、小木江城は落城し織田信興は自害。

志賀の陣

1571年5月12日(第1次長島侵攻)

織田信長は小木江城のかたきを討つために、5万の兵を率いて長島に向けて出陣。軍勢を以下の3手に分けて3方面から長島に攻め込んだのです。

5月16日

織田信長は、一度兵を引こうとして全軍に撤退命令を出します。すると、一揆勢は撤退する織田軍を山中で襲撃しようとします。太田口方面の指揮官だった柴田勝家は、一揆勢の襲撃を受け負傷。また、太田口方面で殿を務めていた、氏家直元が討死にしています。こうして、第1次長島侵攻は、織田信長の敗北に終わりました。

第2次長島侵攻(VS 長島一向一揆)

1573年9月

織田信長が船集めに苦労しているところを示す図

手痛い敗北から2年後、織田信長は再び長島攻めを行います。織田信長は長島侵攻に際して、伊勢(三重県北部)の北畠氏の支配下にあった船を利用しようと考えたのです。織田信長は、北畠氏の養子として送り込んだ次男の北畠具豊(後の織田信雄)に命じて、大湊に船を集めさせようとしました。しかし、大湊の有力者は船を出し渋り、結局船が集まることはなかったのです。

9月24日~26日

船は手に入らなかったものの、織田信長は長島侵攻を実行。伊勢北部に数万の軍勢を召集。9月25日には太田城に着陣し、26日には一揆勢が守る西別所城を攻略しました。

10月6日~8日

織田信長の配下の武将が北伊勢の諸城を攻め、北伊勢の大部分の城が降伏もしくは織田方の手に落ちます。以下が織田信長に降伏、もしくは攻め取られた城だと言われています。

  • 坂井城
  • 近藤城
  • 萱生城
  • 伊坂城
  • 赤堀城
  • 桑部南城
  • 千種城
  • 長深城

しかし、白山城の中島将監のみが織田信長に降伏せず、抵抗姿勢を見せたので織田信長は配下の武将を派遣し城を攻めさせました。

10月25日

伊勢の大湊での船の調達が思うように進まなかったこともあり、織田信長は軍を返します。撤退に際し、滝川一益を矢田城に入れて、織田軍は美濃に向け撤退を開始しました。

しかし、長島一向一揆側もだまっていません。織田軍が撤退を開始すると一揆勢は多芸山にて、織田軍を待ち伏せ。織田軍の殿を任されていた、林通政は奮戦するも討死。しかし、林通政の奮闘のおかげで、織田信長は窮地を脱し大垣城に逃げ帰ることができたのです。

第3次長島侵攻(VS 長島一向一揆)

前年に織田信長が長島を攻め落とせなかった原因の一つが、軍船の準備ができていなかったからでした。川岸から長島を包囲しても、河口に位置する長島には海上からの、物資の運び込みが可能です。さらに、軍船の数が足りなければ、織田軍は長島に直接攻撃も仕掛けられません。

そこで4回目の長島侵攻に臨むに当たり、織田信長は軍船の調達を万全にして長島一向一揆との戦いに臨みました。

1574年6月

織田信長岐阜城を出陣して、長島侵攻のための本営となる津島に着陣。津島は、尾張の中でもトップレベルの商業都市で、織田信長尾張を統一する前にその勢力を支えた都市でもありました。織田氏の勢力圏に動員命令をかけて7万もの兵を徴収しました。そして、陸上と海上から長島の包囲を始動。

7月

第3次長島侵攻めに向けた織田軍の配置

陸上から攻める織田軍は以下の3手に分かれて進軍しました。

具体的な場所の特定は困難ですが、上記の図のような配置だったと考えられます。また、ここでは柴田勝家が進んだ賀鳥口は「かとりくち」と読み、読み方から現在の三重県桑名市香取町付近から進軍したとしています。

7月14日

織田信長が率いる本隊の進軍経路を示す図

陸上の織田軍は進撃を開始。織田信長は小木江の一揆勢を敗走させた後、前ヶ須、海老江島、加路戸、鯏浦島の一揆勢の拠点を放火。また、篠橋砦への攻撃も命じます。そして、自身は五明砦に本陣を構えました。

7月15日

長島一帯に織田軍の水軍が到着したことを示す図

織田方の水軍が長島一帯に到着。織田水軍を構成するのは以下でした。

九鬼・伊勢水軍合わせて数百艘の船が河口を封鎖し、長島をの中洲の間を流れる川を埋めつくしました。北畠具豊は織田信長の次男で後の織田信雄です。南伊勢の北畠氏の養子となっていました。

7月16日以降

一揆勢が5つの砦に追い詰めらたことを示す図

織田軍の水陸を問わない猛攻により、一揆勢は各砦を追われ、中洲の長島、屋長島、中江、対岸の篠橋、大鳥居に逃げ込みます。これは織田軍による誘導作戦で、5つの城砦に籠る人の数が増えることで、5つの砦内の兵糧(食糧)は早くなくなります。この後、織田軍は5つの砦を包囲し、兵糧攻めにします。大鳥居砦、篠橋砦に籠った一揆勢は、織田軍に降伏を申し出るも許されません。

8月2日夜

織田軍が大鳥居砦の一揆勢を攻撃していところを示す図

大鳥居砦の一揆勢が、夜陰に乗じて砦を抜け出します。しかし、織田軍がこれを発見し攻撃。織田軍の攻撃によって大鳥居砦は陥落。男女合わせて1000人が打ち取られました。

8月12日

篠橋砦の一揆勢が長島砦に逃げている所を示す図

大鳥居砦と同様に、篠橋砦も兵糧が限界をむかえていました。篠橋砦の一揆勢は、長島に渡り織田軍に内通する旨を伝え長島に渡ります。長島に動きは見えませんでしたが、長島の兵糧の枯渇は早まりました。

9月29日

長島砦から出てくる一揆勢を織田軍が攻撃しているところを示す図

織田軍の兵糧攻めにより、飢餓に苦しむ長島の長島砦がついに降伏を申し出ます。織田信長はこれを許可。一揆勢は続々と長島から退去しようと小船に乗り込みまが、ここで織田信長が約束を破ります。長島城から出て小舟に乗り込む一揆勢に攻撃を仕掛けたのです。

約束を反故にされた一揆勢は最後の力を振り絞り織田軍に最後の抵抗を示します。一揆勢の捨て身の反撃に、織田軍にも約1000人のも犠牲者がでました。織田軍の戦死者の中には、織田信長の兄の織田信広、弟の織田秀成など織田一族も多く出たようです。一方で、長島の願証寺に籠った一揆勢は奮戦するも、織田軍の圧倒的な数を前に敵うわけもなく全員が討死しました。

屋長島砦、中江砦が織田軍によって焼かれているとこを示す図

その後、残る屋長島、中江の砦は織田軍により何重にも柵で囲まれ放火されます。織田信長は、屋長島、中江に籠る一揆勢を焼き殺したのです。

長島のその後

一揆を殲滅した織田信長は、長島の支配を滝川一益に任せます。滝川一益はこれを機に伊勢北部の支配も任されました。

槇島城攻め:戦いで読み解く戦国史

槇島城攻めは、槇島城に籠城した足利義昭織田信長が攻めることで生じた戦いです。槇島城攻めと前後の情勢について見ていきましょう。

槇島城攻めというと文字灰色の背景

槇島城攻めとは?

槇島城攻めの勝敗と起きた場所を示す図

一度、織田信長に敵対するも失敗に終わった足利義昭は、約3ヶ月後に槇島城に籠城し織田信長に再度敵対。足利義昭が籠城した槇島城を織田信長が攻めることで起きた戦いが槇島城攻めです。

槇島城攻め前後のまとめ

以前:足利義昭織田信長と争い和睦

以後:足利義昭は京から追放

槇島城攻め以前の情勢

足利義昭と織田信長の関係の変化を示す図

織田信長の支援によって念願だった征夷大将軍の座に就いた足利義昭は、織田信長と良好な関係を築けていました。しかし、次第に両者の関係は悪化し、1572年9月には織田信長足利義昭に十七ヶ条の意見書を提出。これは、足利義昭を強く非難する文書でした。

一方で、甲斐(山梨県)の戦国の雄、武田信玄遠江(静岡県東部)に侵攻。遠江を治めていたのは徳川家康で、織田信長の同盟者でした。織田信長徳川家康の要請もあり援軍を派遣。しかし、三方ヶ原の戦いにて徳川・織田連合軍は武田軍に敗北。

武田軍の三方ヶ原の戦いでの勝利受けて、1573年2月足利義昭武田信玄を頼り織田信長に敵対。しかし、武田軍は武田信玄の病状悪化により撤退を開始。これを知った織田信長は和睦を拒否する足利義昭の御所(居住地)、二条城を攻めることに。最終的には、天皇の命令に従う形で、織田信長足利義昭は和睦を締結。 

二条城攻め

しかし、和睦成立後も足利義昭は不穏な動きを見せ続けます。そして7月には、二条城の守備を家臣の三淵藤央らに任せ、自身は槇島城に籠城し、再度織田信長に敵対するのでした。

槇島城攻め

足利義昭の挙兵した位置と織田信長の進軍経路を示す図

1573年7月3日

足利義昭は家臣である槇島昭光の居城、槇島城に籠城し織田信長に敵対。足利義昭は槇島城が防戦に優れていると考えて籠城場所に選んだのでした。

7月6日

織田信長の下に、足利義昭が4月の講和後も不穏な動きを続けているという知らせが届いていました。そのため、織田軍の先鋒は足利義昭の挙兵から3日後には大津に着陣。

7月7日

織田信長は、佐和山城から大船に乗り出陣。足利義昭の挙兵に備え、迅速な移動ができるよう、以前から家臣で佐和山城主の丹長秀に琵琶湖を渡るための大船の建造を命じていたのです。そして、7月5日には大船が完成。大船で琵琶湖を渡った織田信長は、坂本で2泊します。

二条城包囲

妙覚寺と二条城の位置関係を示す

7月8日~9日

8日には織田軍の先鋒が京に到着。一方、織田信長は先鋒が京に入った翌日、9日に京に入り妙覚寺に本陣を置きました。

7月10日

織田の大軍による包囲によって二条城内は大騒動。降伏を申し出る物が多数出現。しかし、守将を任されていた三淵藤央のみが、その責任からか徹底抗戦の姿勢を見せました。そこで、織田家重臣柴田勝家が二条城内に使者として赴き、三淵藤央を説得。しかし、三淵藤央もすぐには首を縦に振りません。

7月12日

ついに、三淵藤央も織田方の勧告に従い降伏。二条城を退去し、居城の伏見城へと撤退しました。その後、二条城は織田軍によって破却されます。

槇島城攻め

7月16日

五ヶ庄に織田軍の先陣が到着したことを示す図

/>二条城の破却を終えた織田軍の諸将は槇島城を攻めるために、宇治方面へ南下を開始。宇治、五ヶ庄に布陣し織田信長の到着を待ちました。

7月17日

織田信長が五ヶ庄に到着し軍勢を二手に分けたことを示す図

織田信長は京を出陣し、諸将が布陣していた五ヶ庄に本陣を構えました。そして、諸将を二手に分けます。一手を平等院の近くに、もう一手を五ヶ庄の周囲に配置しました。

7月18日

織田軍が槇島城に攻めかかかることを示す図

平等院および五ヶ庄に布陣した織田軍は、午前10時頃に川を渡り中洲に上陸。槇島城に攻めかかりました。織田軍が中洲に上陸すると、瞬く間に城の防壁は破壊され火が放たれます。戦の様子を宇治山にて眺めていた織田信長は夕方には下山し諸将の戦いぶりを視察。

7月19日

槇島城はついに開城します。足利義昭織田信長の降伏勧告に従い降伏したのです。織田信長足利義昭の降伏を受け入れるための条件は以下でした。

槇島城攻め以後の情勢

足利義昭が若江城まで逃げ延びた経路を示す図

槇島城から追放された足利義昭は、若江城の三好義継を頼って都落ちすることとなりました。足利義昭若江城への退城後も、御内書を諸大名に発給し織田信長の討伐を要請。征夷大将軍としての権威で諸大名を動かし織田信長を討伐しようと目論みます。

一方で、織田信長は槇島城の開城から1ヶ月も経たないうちに、長年敵対関係にあった近江(滋賀県)の浅井長政の討伐に赴くのでした。

南伊勢攻め:戦いで読み解く戦国史

南伊勢攻めは、織田信長が伊勢(三重県の一部)の南部に勢力を張っていた北畠氏を、攻めた戦いです。南伊勢攻めの推移の中には、未解明の部分も多く詳細の解明が求められています。

灰色の背景と南伊勢攻めという文字

南伊勢攻めとは?

南伊勢攻めの勝敗と争いが起きた場所を示す図

1569年、伊勢(三重県の一部)の南部を支配していた北畠具教・具房の父子を、織田信長が攻めた一連の戦いを、ここでは南伊勢攻めと呼ぶことにします。最終的に、織田信長と北畠氏との講和に終わりますが、講和条件は織田信長に非常に有利でした。

しかし、実際の戦いでは北畠具教・具房が善戦し、ほぼ織田方の敗北だったとも言われていますが、詳細は未解明です。

南伊勢攻め前後のまとめ

以前:木造具政が織田信長に内通

以後:織田信長の次男が北畠氏の養嗣子

南伊勢攻め以前の状況

木造城攻めの経緯と起きた場所を示す図

織田信長は伊勢北部を、足利義昭の上洛(京に上ること)を支援する以前に平定していました。当時の伊勢北部は中小領主が乱立する状態で、織田信長はこれらを各個撃破。一方で、伊勢南部を中心に勢力を持つ北畠氏は、当時の織田信長にとって容易に勝てる相手ではありませんでした。

そこで、織田信長は南伊勢には攻め込まず、足利義昭のために上洛戦を実行。畿内(京周辺)の情勢が落ち着き、足利義昭のために二条城を建設し終えた後の1569年5月、織田信長の元に朗報がもたらされます。

北畠具教の実弟で木造城主の木造具政が、織田方に寝返りました。織田信長は家臣の滝川一益に命じて、木造具政を調略させていたのです。一方で、北畠氏もだまっていません。当主の北畠具房が自ら軍勢を率いて、木造城を包囲。木造具政は、滝川一益と北伊勢の神戸氏、長野氏の援軍とともに木造城に籠城したのでした。

南伊勢攻め

1569年8月20日~23日

織田信長は木造具政の寝返りを無駄にしないために、8月20日岐阜城を出陣。総力に近い8万~10万の大軍勢を率いての出陣だったと言われています。そして、その日のうちに桑名に着陣し翌日は鷹狩りを行いました。そして、22、23日には白子観音、小作まで進軍。

阿坂城攻め

8月26日

阿坂城攻めの勝敗と起きた場所を示す図

順調に軍を進める織田信長は、阿坂城を包囲。阿坂城を守るのは、北畠氏の重臣、大宮含忍斎だったと伝わっています。先陣の木下秀吉(後の豊臣秀吉)が阿坂城の堀際まで攻めかかりましたが、城方の反撃により負傷して後退。

しかし、織田方が大軍で攻め寄せると、防戦が困難と考えた、城方は降伏し阿坂城を退去。織田信長は阿坂城の守備を滝川一益に任せました。

大河内城攻め

北畠氏の居城は霧山城でしたが、北畠具教・具房は大河内城に籠城。

8月26日~28日

大河内城攻めで戦った人物と起きた場所を示す図

阿坂城を落とした織田信長は、その日のうちに大河内城に到着。8月28日には、四方に家臣を配置して鹿垣を二重三重に作り包囲。

9月8日夜

大河内城を西から織田軍が攻めているとこを示した図

織田信長は、稲葉良通池田恒興丹羽長秀に命じて、西から三手に分かれて夜討ちを掛けさせます。しかし、雨が降ったため鉄砲を使うことはできず、城方の反撃により死傷者が出て失敗。

この日の夜討ち以外にも、織田方は城攻めを敢行し失敗をしたという記録や城を囲んでいる織田軍が北畠方に襲撃されたという記録も伝わっています。しかし、史料の信憑性を加味する必要があり、詳細は未解明です

9月9日

霧山城攻めと大河内城攻めの場所を示す図

夜討ちに失敗した織田信長は、滝川一益に命じて、北畠具教・具房の居城、霧山城とその周辺を焼き払わせました。そして、大河内城を兵糧攻めにします。

この兵糧攻めの結果については、城方には餓死者が続出したという記録や、城方は兵糧攻めを予期しており城内に大量の兵糧を備蓄しており効果はなかったという正反対の記録が残っています。信憑性の高い史料では「餓死者が続出した」と綴っていますが、織田方による記録であるため100%信用できるとは限りません。

10月3日

兵糧攻め開始から約1ヶ月、織田信長と北畠具教・具房は和睦。史料によって、北畠氏側から和睦したというものもあれば、織田信長から和睦を提案したというものもあります。この点に関しても未解明です。信憑性が高いとされる織田方の史料では、北畠氏側が、和睦を申し込んだことになっています。

しかし、現在では織田信長が15代将軍の足利義昭を動かし和睦に漕ぎ着けたという説が有力です。(有力であって確定ではない。)

わかっていることは、講和の条件が織田信長に有利だったことです。以下が条件です。

  1. 北畠具教・具房は大河内城を退去し他の城に移る
  2. 織田信長の次男、茶筅丸(後の織田信雄)を北畠氏の養子とする
  3. 周囲の北畠氏の城を破却する

織田方に有利な条件ですが、これは和睦の仲立ちをした足利義昭が、織田信長の味方であったためだと考えられています。

南伊勢後の情勢

南伊勢攻め後の勢力変化を示す図

和睦の条件通り、北畠具教・具房は大河内城を退去し、三瀬御所に移りました。一方で、大河内城には織田信長の次男である茶筅丸が入城。

北畠氏との和睦が成立した後、織田信長は京に行きます。足利義昭と面会し、朝廷にも顔を出した後、当初の予定より早く岐阜城に帰還。足利義昭と会った際に、不快を感じたためと言われています。織田信長足利義昭と話した内容については記されていませんが、南伊勢攻めのことについてだと、推測されています。

一方で、北畠具教は織田信長の次男、北畠具豊(後の織田信雄)にはしばらく家督を譲渡しませんでした。しかし、最終的には家督を譲渡。そして、家督譲渡の翌年、織田信長家督を譲られた北畠信意(後の織田信雄)によって、三瀬御所を襲撃され殺されてしまいます。

二条城攻め:戦いで読み解く戦国史

二条城攻めは、敵対し和睦を拒否する足利義昭の居城である二条城の周辺を織田信が焼討ちにしたことを指します。二条城攻めとは名ばかりで、実際に城攻めが行われたわけではありません。

二条城攻めとう文字と灰色の背景

二条城攻めとは?

二条城攻めの勝敗と起きた場所を示す図

織田信長が自身に敵対する足利義昭と和睦するために、圧倒的軍事力を背景とした脅しを敢行。御所(足利義昭の居住地)の二条城の周辺を焼討にしました。これを、二条城攻めと言います。 

二条城攻め以前の情勢

織田信長と足利義昭が敵対した後の経緯を示す図

以前までは概ね良好だった織田信長足利義昭の関係が1572年になると悪化します。これにより、織田信長足利義昭を批判する十七ヶ条の意見書を提出。

このよう中で、甲斐(山梨県)の徳川家康の領地である遠江(静岡県東部)に武田信玄が侵攻。三方ヶ原の戦いにて、徳川・織田軍は武田信玄に敗北。三方ヶ原の戦いの結果を受けて翌年、足利義昭武田信玄を頼り織田信長に敵対。

しかし、足利義昭は前哨戦の石山砦・今堅田砦の戦いに敗北。一方で、足利義昭が頼り被下武田信玄も、病状悪化のため帰国を開始。織田信長は前哨戦に勝利するも、自身が譲歩してまで足利義昭との和睦の道を模索し締結の直前にまで話が進みました。ところが、当然足利義昭織田信長との和睦を拒否。

二条城攻め

3月25日

足利義昭との和睦が不可能と考えた織田信長は、武田軍が自国に向けて引き返していることを知ると、岐阜城を出陣。京に向かって兵を進めました。

3月29日

近江(滋賀県)と山城(京都府南部)の国境、逢坂にて、細川藤孝荒木村重織田信長を出迎えます。そして、正午には織田軍は京に到着。織田信長知恩院に本陣を構え、諸将は京の東部に布陣。

4月2日~3日

織田信長は、京の郊外への放火を命じました。同時に、足利義昭に和睦を提案する使者を派遣。しかし、足利義昭がこれに応じることはありませんでした。

4月4日未明

ついに織田信長は京に放火します。織田軍は京の北部、上京を焼討ちにしました。足利義昭の御所(居住地)である二条城と、天皇の御所である内裏は京の中間に位置。北は上御霊社から南は将軍御所の当たりまでを焼き払ったのです。織田信長は、二条城と内裏に火の手が回らないよう手を回して焼討ちを実行しています。

天皇の内裏に火が回らないよう注意するのは当たり前ですが、二条城にまで気を配ったのは、あくまで焼討ちが足利義昭に対する示威行動だったからです。織田信長はあくまで、和睦による解決を望んだのでした。

さらに、織田信長は焼討ちで生じる治安の悪化に対して対策を講じませんでした。あえて、治安を悪化させることで、民衆に足利義昭に治安維持する力すらないことを示すためだったと考えられています。

4月4日夕方~4月7日

上京の焼討ち後から、和睦の流れが急激に進みます。とはいうものの、足利義昭は当初、和睦に応じるつもりはなかったようです。そこで、織田信長天皇に和睦の話を通し、天皇の仲裁によって足利義昭と講和。

まず、織田信長の本陣に天皇の使者が訪れます。使者の役目を務めたのは、関白の二条晴良、大納言の三条実澄、中納言の庭田重保でした。その後、4月6日にも使者が足利義昭の元を訪問し、講和を伝達しそのまま織田信長の陣に再び足を運びました。4月7日には、織田信長が二条城に講和の使者として、織田信広・佐久間盛信・細川藤孝を派遣し講和が成立。

4月8日

和睦が成立したことによって、織田信長は京を発し岐阜城に帰還。

二条城攻め以後の情勢

二条攻め後の足利方が籠った城の場所を示す図

織田信長との講和後も足利義昭は不穏な動きを見せます。二条城の修理のために、吉田兼見から人足を何度も徴収。そして、5月には諸国の諸大名に織田信長を滅ぼすために挙兵することを要請する書状を出します。7月には二条城を家臣の三淵藤央に守らせ、自身は槇島城に移り、再度織田信長に敵対するのでした。

石山砦・今堅田砦の戦い:戦いで読み解く戦国史

石山砦・今堅田砦の戦いは、足利義昭織田信長に敵対して起きた戦いです。両者の争いの前哨戦に位置付けられます。

石山砦・今堅田砦の戦いという文字と灰色の背景

石山砦・今堅田砦の戦いとは?

石山砦・今堅田砦の戦いの結果を示す図

石山砦・今堅田砦の戦いとは、織田信長足利義昭が敵対したことで起き戦いです。足利義昭は敵対を決めると、いち早く織田信長の勢力圏の、明智光秀が統治する近江(滋賀県)志賀郡に山岡景友を派遣し石山砦・今堅田砦を構築させました。これに対抗して、織田信長柴田勝家明智光秀丹羽長秀・蜂屋頼隆を現地に派遣し戦いとなりました。

石山砦・今堅田砦の戦い以前の情勢

織田信長、足利義昭、武田信玄の関係性を示す図

1572年になると織田信長足利義昭は、あからさまに対立するようになり、織田信長足利義昭に十七ヶ条の意見書を提出。ところが、甲斐(山梨県)の武田信玄徳川家康の領地である遠江(静岡県東部)に侵攻。三方ヶ原の戦いにて、徳川家康率いる軍勢、織田信長が派遣した援軍に完勝。武田信玄の勝利を受けた翌年、旗幟を鮮明にしていなかった足利義昭織田信長に対して敵対するのでした。

石山砦・今堅田砦の戦い

石山砦の戦い

石山砦の戦いの結果と起きた場所を示す図

2月13日

足利義昭織田信長に敵対姿勢を表明すると、山岡景友(当時は光浄院暹慶)を指揮官として近江(滋賀県)の志賀郡に攻め込ませます。志賀郡は織田信長の家臣となっていた、明智光秀が統治を任されていました。

近江志賀郡に入った山岡景友は、磯谷久次、渡辺昌らと合流。そして、石山と今堅田に砦を構築し始めました。磯谷久次、渡辺昌らは、明智光秀の与力(直属の家臣ではないが普段は明智光秀に従う)でしたが、足利義昭の家臣でもあるという立場だったのです。

このような動きに対し、織田信長柴田勝家明智光秀丹羽長秀・蜂屋頼隆に鎮圧を命じました。

2月24日

柴田勝家明智光秀丹羽長秀・蜂屋頼隆が率いる軍勢石山砦を攻撃。石山砦を守備していたのは山岡景友に加え甲賀衆・伊賀衆の援軍。兵数の違いに加え、石山砦は建造途中であったこともあり、2日後には開城。織田軍は石山砦を破却しました。

堅田砦の戦い

今堅田砦の戦いの結果と経緯を示す図

2月29日

続いて、織田軍は今堅田砦を攻めます。今堅田砦には、磯谷久次・渡辺昌らが籠っていました。今堅田砦は琵琶湖の湖畔にあったこともあり、明智光秀は水軍を率い進軍。一方で、丹羽長秀・蜂屋頼隆は陸路を北上。柴田勝家は石山砦に留まりました。

織田軍の猛攻により、今堅田砦は落城。しかし、この戦いで明智光秀も配下の将兵を失います。織田方にも少なからず損害が出たのでした。

このように、いち早く近江志賀郡への侵攻を目論んだ足利義昭ですが、織田信長の素早い対応により返り討ちに遭ったのです。織田信長足利義昭の争いにおける前哨戦は、織田信長の勝利に終わるのでした。

石山砦・今堅田砦の戦い以後の情勢

織田信長と足利義昭の和睦が破談になった様子を示す図

石山砦・今堅田砦の戦いは織田軍の勝利に終わりましたが、織田信長足利義昭を屈服させたわけではありません。あくまで前哨戦です。

その後、織田信長足利義昭との和睦を希望し譲歩を重ね締結目前までたどり着きまた。しかし、締結寸前で足利義昭が和睦を拒否、選択肢のなくなった織田信長は御所(足利義昭の居住地)二条城攻めを決意したのでした。

二条城攻め:戦いで読み解く戦国史

ちなみに、足利義昭が頼りにした武田信玄は、2月17日に体調を崩し、自領に向けて撤退しています。

小谷城・一乗谷攻め:戦いで読み解く戦国史

朝倉義景浅井長政織田信長に攻め滅ばされたのが、それぞれ一乗谷小谷城の戦いです。ここでは、朝倉義景浅井長政が滅ぶまでの経緯について解説しています。

灰色の背景と小谷城・一乗谷攻めという文字

小谷城一乗谷攻めとは?

小谷城・一乗谷攻めの勝敗の結果と起きた場所を示す図

1573年8月、織田信長一乗谷朝倉義景を攻め滅ぼした後に、返す刀で小谷城浅井長政を滅ぼしました。金ヶ崎の退き口(1570年)から約3年に渡り、織田信長にとって朝倉義景浅井長政は目の上の瘤のような存在でした。

小谷城一乗谷攻め前後の情勢のまとめ

以前:織田信長に敵対する諸勢力が力を削がれ、朝倉義景浅井長政が孤立

以後:織田信長の版図が近江(滋賀県)・越前(福井県北部)に拡大

小谷城一乗谷攻め以前の情勢

織田信長に敵対する諸勢力の状況を示す図

織田信長と、朝倉義景浅井長政の争いは1570年に、織田信長朝倉義景討伐のために兵を挙げたことが原因です。ここで、織田信長の同盟者であった浅井長政が裏切り、織田信長朝倉義景浅井長政の対立が始まります。

その後も、織田信長朝倉義景浅井長政姉川の戦い、志賀の陣、二度の小谷城攻めと大小の戦いを展開しますが、どちらも決定打に欠けるものでした。これは、織田信長浅井長政朝倉義景以外にも敵対する勢力を抱えていたからです。

しかし、以下のように諸勢力の影響力が減衰。

このように、織田信長と領土が接する小谷城浅井長政は、一乗谷朝倉義景しか頼る相手がいなくなります。このような中で、浅井氏の城は次々と攻め落とされていきます。さらに、浅井氏の家臣には、以下のように織田方へ寝返る者も出現。織田信長は、小谷城に近い、山本山城の阿閉貞征が降伏してきたことを契機として、小谷城を攻めに移ります。

小谷城一乗谷攻め

1573年8月8日~10日

小谷城周辺での布陣を示す図

8月8日、小谷城に近い山本山城の阿閉貞征織田信長に降伏。この知らせを受けて、織田信長は3万の兵を率い岐阜城を出陣し、翌日には小谷城周辺を見渡せる、虎御前山に布陣。そして、翌々日に佐久間盛、柴田勝家を山田山に配置。

一方で、越前から援軍として駆けつけた朝倉義景は田上山に本陣を構えます。朝倉義景引きる兵は2万人で、先鋒の朝倉景健・景胤は田部山に布陣。また、琵琶湖西部から来た山崎吉家らは賤ヶ岳に布陣。その他の諸将は余呉から木之本一帯に陣を敷きました。そして、朝倉勢は大嶽城とその背後に焼尾砦を構築したのです。大嶽城は小谷城より高所にあり、朝倉軍にとって重要な拠点でした。

この動きに対し、織田信長重臣佐久間信盛柴田勝家山本山城に派遣し、小谷城と越前(福井県南部)の交通を遮断。さらに、朝倉勢への牽制として、高月に稲葉良通丹羽長秀、蒲生氏、永原氏、進藤氏、永田氏らを派遣。

8月12日夜

織田信長が大嶽城を攻める様子を示す図

大嶽城の守備の一翼を担っていた浅井氏の家臣、浅見対馬守が織田方に寝返りを伝えてきました。これを好機と捉えた織田信長は夜間の暴風雨の中、大嶽城を急襲。浅見対馬守に手引きさせました。大嶽城に向かわせた兵は、山本山城に配置されていた佐久間信盛柴田勝家滝川一益、木下秀吉(後の豊臣秀吉)だったと言われています。

また、大嶽城への襲撃に際し、織田信長も自ら軍を率いて焼尾砦を落とし大嶽城へ攻め上がったのでした。突然の織田軍の襲撃を受け、大嶽城を守っていた将兵は、織田信長によって解放され、それぞれ浅井軍、朝倉軍の元に戻って行きました。将兵を返すことで、朝倉義景に大嶽城の周辺を制圧したと伝えようとしたのです。

8月13日

織田信長が丁野城を攻める様子を示す図

大嶽城を落とした織田信長はそのまま、丁野城を攻め落としました。ここでも、織田信長は捕らえた敵の兵を解放。

朝倉義景が撤退を始める様子を示す図

連日による味方の城の落城により、戦意喪失した朝倉義景は夜に越前へ撤退を開始。しかし、朝倉義景の撤退は織田信長により事前に読まれていたのです。織田信長は配下の武将に、追撃の準備を命じていましたが配下の武将達は出遅れます。結局、朝倉勢2万が撤退を開始すると、織田信長は自ら先頭に立ち後を追います。なんとか追いついた織田軍の武将達を織田信長は叱責。

織田信長が朝倉義景を追撃する様子を示す図

それでも、織田軍は敦賀と近江(滋賀県)の境、刀根坂で朝倉軍に追いつきます。この戦いは織田軍による朝倉軍の追撃戦。戦争で犠牲者が最も発生しやすいのが、追撃戦の様相を呈した時です。この時も例に漏れることなく、織田軍の一方的勝利となり、朝倉軍には戦死者が続出。織田信長による美濃攻めにより、逃亡した美濃(岐阜県南部)の旧国主、斎藤龍興もここで討死しています。

8月14日~18日

織田信長と朝倉義景の動向を示す図

辛くも織田軍の追撃を逃れた朝倉義景は、15日に居館の一乗谷に帰還。しかし、多くの将兵を失い、越前(福井県北部)にも味方をする者もいない有様でした。そこで16日、朝倉義景は、朝倉景鏡の進言に従い大野郡山田庄に向け逃走。当時、大野郡を治めていたのは朝倉景鏡であり、大野郡には朝倉氏と同盟していた平安寺もあり再起を図ろうとします。

一方の織田軍は14日からの2日間、敦賀に逗留。刀根坂での追撃戦による疲れを癒しつつ、地元の有力者から人質を取っていました。その後、降伏してきた前波吉継を案内役として、織田軍は木の芽峠を越え一乗谷に攻め込みます。18日、織田信長は府中に移動し、一乗谷に放火。朝倉義景に忠義を尽くす者達の抵抗に遭いますが、一乗谷は灰燼と化したのです。

8月20日~24日

朝倉義景の最期を示す図

大野郡に移動した朝倉義景一行は、一時的に宿舎として六坊賢松寺を利用していました。しかし、20日朝倉景鏡が朝倉義景を裏切り、六坊賢松寺を包囲。朝倉義景は自刃を余儀なくされたのです。朝倉景鏡は朝倉義景の首を持ち、24日に織田信長に降伏。朝倉景鏡は降伏を認められたのでした。

8月25日~26日

その後、越前(福井県南部)を帰参した朝倉家旧臣に分け与え、越前全体は前波吉継に任せ支配体制を確立。また、朝倉義景の嫡男、愛王丸を探し出させ丹羽長秀に殺させたのです。

織田信長が小谷城周辺に布陣する様子を示す図

越前の仕置を終えた後、織田信長小谷城に向けてもと来た道を戻ります。26日には織田信長は再度、虎御前山に本陣を構えました。

8月27日~29日

27日織田信長は木下秀吉に対し、小谷城の京極丸を攻めるよう命令。京極丸は浅井長政が籠る本丸と、浅井長政の父、久政が籠る小丸との間にあり連絡を担っていたのです。浅井井規が織田方に内通し手引きしたとも言われています。

京極丸を落とした勢いのまま織田勢は、浅井久政が立て籠もる小丸に攻撃。この攻撃を受けて、浅井久政は自害。翌日から織田軍は、最後に残った本丸攻勢を掛けます。浅井長政も28日または29日の内に自害し、小谷城は落城。

織田信長は宿敵、朝倉義景浅井長政の両者を一挙に攻め滅ぼしたのです。また、浅井長政の嫡男、万福丸も探し出され関ヶ原にて磔に処されました。

小谷城一乗谷攻め以後の情勢

浅井氏が支配していた近江(滋賀県)北部、越前(福井県北部)を手中に収めた織田信長は、論功賞を行います。近江北部の旧浅井領は、以前から浅井攻めを担当していた木下秀吉に与えられました。

旧浅井領の支配体制を示す図

浅井領(近江三郡)

朝倉義景の死後に織田信長により決められた越前(福井県南部)の支配体制は以下のようになっています。

越前の支配体制を示す図

朝倉領(越前)

比叡山延暦寺焼討事件:戦いで読み解く戦国史

比叡山延暦寺焼討ち事件は、織田信長による悪行として名高い事件です。ここでは、何故織田信長比叡山延暦寺を焼討ちにしたのかまで含め、経緯を紹介しています。

比叡山延暦寺焼討事件という文字と灰色の背景

比叡山延暦寺焼討ち事件とは?

比叡山延暦寺焼討事件の結果と起きた場所を示す図

1571年9月12日、織田信長比叡山延暦寺に火を放ち、老若男女を撫で斬りにしました。織田信長といえば、仏教嫌いのイメージがありますが誤ったイメージです。織田信長は敵対しない寺社に対しては、保護を行なっています。比叡山延暦寺が攻められたのは、前年織田信長に対し敵対姿勢を示したからでした。

比叡山延暦寺焼討ち事件前後のまとめ

以前:延暦寺は志賀の陣で織田信長な敵対

以後:明智光秀延暦寺一帯を統治

延暦寺焼討ち事件以前の情勢

志賀の陣の結果と明智光秀が与えられた城の位置を示す図

1570年9月、浅井長政朝倉義景が、織田信長が摂津で三好三人衆との戦いで京を留守にしている隙を突いて、近江を南下。比叡山延暦寺は、浅井長政朝倉義景に味方し、織田信長が進軍してくると浅井・朝倉軍を山中に匿います。

織田信長は着陣すると、改めて比叡山延暦寺に味方するか、それができないならせめて中立を保つことを要求。しかし、比叡山延暦寺はこれに回答せず敵対姿勢を取ったのです。

この一連の争いは、和睦という形で引き分けに終わります。しかし、織田信長比叡山延暦寺への怒りを忘れることはありませんでした。織田信長は、明智光秀に宇佐山城を守らせ、一帯の国人(地域の有力武士)を味方に取り込ませます。比叡山延暦寺を攻めるための、準備を密かに進めたのです。

延暦寺焼討ち事件

織田信長比叡山延暦寺を攻めた時の経過を示す図

志賀の陣から約1年後の1571年9月12日、織田信長は周到に準備を整え、比叡山延暦寺焼討ちを実行。織田軍は比叡山を包囲しました。織田信長は全軍に命じて、根本中堂、日吉大社をはじめとした建物、経典など、比叡山延暦寺に関わるすべてを焼き払ったのです。

比叡山の老若男女は右往左往し、身一つで八王子山に避難。しかし、織田信長はそこにも攻め込み男女、子供、老人を問わず全員の首を刎ねさせました。これにより、比叡山延暦寺は灰燼と帰し、数千人が亡くなったと言われています。

延暦寺焼討ち事件以後の情勢

志賀郡の場所を示す図

織田信長比叡山延暦寺がある志賀郡は、明智光秀に与えました。これ以前に、明智光秀足利義昭の家臣を辞して、織田信長の家臣になっていたのです。

織田信長の存命時に、比叡山延暦寺比叡山延暦寺が復興されることはありませんでした。豊臣秀吉の世になってからも、しばらく復興は許されませんでしたが、織田信長による焼討から13年後、豊臣秀吉の許しを得て復興されます。

志賀の陣:戦いで読み解く戦国史

志賀の陣は、織田信長浅井長政朝倉義景・比叡延暦寺の3ヶ月弱にも及ぶ対峙のことを言います。志賀の陣に注目して、その前後の情勢まで見ていきましょう。

志賀の陣という文字と灰色の背景

志賀の陣とは?

志賀の陣が起きた場所と勝敗を示す図

志賀の陣は、1570年9月16日織田信長の隙を突いて、浅井長政朝倉義景が近江(滋賀県)を南下してきたことがきっかけとなって起きた争いです。織田信長が現地に赴くと、浅井軍・朝倉軍は比叡山延暦寺の山々に布陣。ここから、長い対峙が始まりました。

志賀の陣前後の情勢

以前:織田信長は摂津で三好三人衆らと対峙

以後:織田の恨みを買った延暦寺は翌年焼討ち

志賀の陣以前の情勢

志賀の陣前の諸勢力の配置を示す図

浅井長政朝倉義景は1570年6月に、姉川の戦い織田信長に大敗を喫していました。しかし、織田信長の方も両者を徹底的に叩くほど、戦力を動員していなかったため、浅井長政朝倉義景は一定の勢力を維持。

一方、織田信長姉川の戦いの後、8月から摂津にて三好三人衆との戦いに臨んでいました。当初は、三好三人衆を圧倒するも、石山本願寺の挙兵によって状況が悪化していたのです。

志賀の陣

1570年9月16日

浅井・朝倉軍が近江を南下する様子を示す図

織田信長が摂津に釘付になっている隙に、浅井長政朝倉義景が、琵琶湖の西部を通って近江(滋賀県)を南下。浅井・朝倉軍への作戦目標は、京への侵攻でした。

浅井軍・朝倉軍南下の知らせを受けた宇佐山城主の森可成は、守備兵1000人のうち500人を率いて坂本口まで出陣。一帯の街道を封鎖し、侵攻を阻もうとしたのです。

そして、浅井・朝倉軍と森軍は小規模な戦闘に。この小競り合いは、森可成が勝利しました。

9月19 日〜20日

浅井・朝倉軍と森良可の争いを示す図

織田信長が摂津で敵対していた石山本願寺顕如の要請を受けて、比叡山延暦寺浅井長政朝倉義景に味方。森可成らは西に僧兵、北に浅井・朝倉軍の計3万の敵を抱えることとなったのです。

浅井・朝倉軍が再度、坂本へ侵攻。森可成らは浅井軍の先鋒山崎片家と遭遇。激戦を繰り広げるも、森可成は石田十蔵に討ち取られます。また、この戦いで織田信長の弟、織田信治は大陽寺景治に討ち取られ、青地茂綱も戦死。

勢いに乗った浅井・朝倉軍は坂本・四谷・錦織・山上に火を放ち、宇佐山城を攻めるも、城兵の激しい抵抗に遭い攻撃は失敗。宇佐山城攻略を諦め、大津に進軍。松本・馬場にも放火しました。

一方で、摂津にいた織田信長の下に浅井・朝倉軍が近江(滋賀県)を南下したという知らせが届きます。これを受け、織田信長柴田勝家村井貞勝明智光秀を摂津から京に派遣したのです。

9月21日

浅井軍の山科への侵攻と織田軍の状況を示す図

浅井・朝倉軍の先鋒は逢坂を超えて、山科、醍醐に侵攻し火を放ちました。

一方で、この日の夜、柴田勝家村井貞勝明智光秀が京に到着。村井貞勝明智光秀京都所司代であったため、京の守備に着きました。

9月23日

浅井軍の逗留地と織田軍の撤退を示す図

一方で、織田信長に摂津から派遣された柴田勝家は近江(滋賀県)の状況を聴取後、摂津へ戻りました。23日柴田勝家から報告を受けた織田信長は摂津からの撤退を開始。その日のうちに、足利義昭とともに京へ帰還。それに対し、この日浅井・朝倉軍は大津に布陣したままでした。

9月24日

織田軍と浅井・朝倉軍・延暦寺の対峙と織田信長の延暦寺への対応をまとめた図

織田信長は京を出発。逢坂を通り、下坂本まで進軍し本陣を置きました。一方の浅井・朝倉軍は、比叡山に登り防備を固めます。浅井長政は青山に、朝倉軍の先鋒、朝倉景健は壺笠山に布陣しました。

比叡山に登られて困った織田信長は、比叡山延暦寺に、味方になれば延暦寺の元領地を返却すること、出家した身でどちらにも肩入れできないなら、中立を保つよう要求。また、敵対するなら、延暦寺を焼討ちにすると伝えました。これに対する、延暦寺からの回答は無し。延暦寺織田信長への敵対を選択したのでした。

9月25日

織田軍が比叡山を包囲する図と将兵の布陣場所をまとめた図

延暦寺が敵対したこともあり、織田信長比叡山の包囲するように諸将を配置。織田軍は、以下のような布陣を敷きました。

坂本香取屋敷

平手汎秀、長谷川丹波、山田勝盛、不破光治

丸毛兵庫頭、浅井政貞、丹羽氏勝、水野大膳ら

穴太

簗田政綱、川尻秀隆、佐々成政、塚本小太郎、明智光秀、苗木久兵衛村井貞勝佐久間信盛、進藤賢盛、後藤高治、多賀常則、梶原景久、永井雅楽介、種田助丞、佐藤秀方、中条家忠

田中

柴田勝家氏家直元安藤守就稲葉良通

唐崎

佐冶信方、津田太郎左衛門

宇佐山城

織田信長

勝軍山

織田信広、三好為三、香西越後守、幕府衆

八瀬・大原口

山本対馬守、蓮葉

10月16日~21日

織田軍と朝倉義景の対峙、朝倉軍の各地の襲撃を示す図

対峙が長引く中、10月16日朝倉義景が朝倉景鏡を前軍として、上坂本から仰木の間に布陣。一方で、織田軍にも丹羽長秀と木下秀吉が援軍に駆けつけています。20日戦線膠着の打開を計った織田信長が、朝倉義景に決戦を申し込むも、朝倉義景はこれを拒否。

21日には、逆に青山を下りた浅井軍が、一乗寺、修学院、高野、松ヶ崎を放火しました。幕府衆と勝軍山の織田軍が向かうも、浅井軍はすぐに退きました。さらに、この頃には、織田信長が浅井・朝倉軍に釘付けになっていたため、以下のように各地で争いが起きています。

11月25日~26日

堅田での織田軍と朝倉軍の争いを示す図

11月25日浅井方であった堅田衆の猪飼昇貞、居初又次郎、馬場次郎が、織田方に寝返りを伝えてきました。知らせを聞いた織田信長は夜間に、坂井政尚、安藤右衛門佐、桑原平兵衛ら1000の兵を派遣。砦に侵入し防備を固めさせようとしますが、朝倉軍がこれを察知。

翌日に朝倉景鏡、前波景当、一向宗門徒らが比叡山を下って、堅田の砦を襲撃。坂井政尚らは孤立するも、前波景当を討ち取るなど奮闘。しかし、織田方は敗北し坂井政尚は討死。猪飼昇貞らは琵琶湖を渡り逃走しました。

11月28日~12月23日

足利義昭と二条晴良が三井寺を訪問した様子を示す図

11月末になっても包囲が続き、戦局が転向しないことを憂いた織田信長は、裏技を使います。朝廷と室町幕府15代将軍、足利義昭の権威を利用して浅井長政朝倉義景との和睦を図ったのです。

11月28日に、足利義昭と関白の二条晴良三井寺を訪問。そして、12月13日に天皇の名の下に、和睦が成立しました。

近代になるまで天皇は日本国内で、最高の権威を持っていました。天皇の勅命に対しては、戦国大名といえど表立って反抗することはできません。織田信長天皇の権威を利用して、浅井長政朝倉義景に半ば強制的に和睦を認めさせたのです。

12月14日~17日

織田信長、浅井長政、朝倉義景の撤退経路を示す図

14日まず、織田信長が勢田まで撤退。その後、浅井長政朝倉義景は高島を経由して、それぞれ自領に帰還。2日後、織田信長も勢田を出発し佐和山を経由して、翌日岐阜城に帰還。

志賀の陣以後の情勢

志賀の陣は、和睦という形で終わりましたが、織田信長浅井長政朝倉義景の緊張状態はこの後も続きます。また、浅井長政朝倉義景に味方した比叡山延暦寺は、翌年織田信長によって焼討ちにされます。

野田・福島の戦い:戦いで読み解く戦国史

野田・福島の戦いは、三好三人衆石山本願寺を引き込み、織田信長に勝利した戦いです。この戦いを機に、有名な石山戦争が始まります。

野田・福島の戦いという文字と灰色の背景

野田・福島の戦いとは?

野田・福島の戦いの勝敗の結果と起きた場所を示す図

1570年7月21日、三好三人衆足利義昭織田信長から京を奪回することを目的に、摂津に侵攻し生じた戦いです。石山本願寺が、三好三人衆に味方し優勢になります。

三好三人衆方は侵略地の維持に成功。三好三人衆の勝利と考えてよいでしょう。

野田・福島の戦いの前後の状況をまとめておきます。

野田・福島の戦い前後の情勢

以前

織田信長姉川の戦いに勝利し、岐阜に滞在

三好三人衆は摂津の池田氏を調略

以後

織田信長は朝倉氏・浅井氏との対峙のため撤退

三好三人衆は侵略地を維持も更に侵攻できず

石山本願寺とな織田信長の敵対開始

三好三人衆は解体されていた

野田・福島の戦いを語る上で、注意しておくことが一つあります。それは、三好三人衆といいつつ、3人が揃っていないことです。

三好三人衆と言われるのは、以下の3人です。

野田・福島の戦いにおける3人の状況は以下のようになっています。

このように、野田・福島の戦い時点では、三好三人衆は解体されていたのです。ただし、三好宗渭の跡を継いだ三好為三は、当初は三好三人衆方として参戦しています。三好三人衆と言いつつ、3人が揃っていないことには注意してください。

野田・福島の戦い以前の情勢

摂津池田城の内紛を示す図

三好三人衆は一時期、畿内の実力者に登り詰め、京を支配していました。しかし、1568年、織田信長畿内に入ると畿内から追放。三好三人衆は、三好家の本拠地、阿波(徳島県)に逃れ反撃の機会を窺っていたのです。

1570年6月、摂津の池田勝正の一族である池田知正、家臣の荒木村重三好三人衆の調略を受けます。2人は池田城から当主、池田勝正を追放。池田勝正は摂津の国人(地元の有力者)で、足利・織田陣営として摂津統治の一翼を担っていました。

摂津の池田氏の調略に成功した三好三人衆は、これを好機と見て1万3000の兵を率いて阿波(徳島県)を出航。摂津を目指しました。織田信長が京ではなく、岐阜にいたこともチャンスでした。

野田・福島の戦い

7月21日頃

三好三人衆による野田城、福島城の築城を示す図

7月21日頃摂津の中島城に入った三好三人衆は、野田砦・福島砦を構築。要所である尼崎との交通を絶ちました。これに対し、京の足利義昭畿内の諸将に討伐を命じるとともに、岐阜城にいた織田信長に知らせます。

8月17日~26日頃

野田・福島周辺での織田信長の布陣を示す図

8月17日、三好三人衆は、三好義継・畠山昭高が守る古橋城を攻略。その勢いで榎並城も攻略してしまいます。これにより事態を重く見た織田信長は、3000の兵を率いて岐阜城を8月20日に出発。織田信長は京で、三好義継、松永久秀、幕府奉公衆と合流。8月26日には4万の兵を率い天王寺に着陣。織田軍は、天満森・川口・渡辺・神崎・難破に布陣しました。

9月3日頃

足利義昭が中島城に入った様子を示す図

野田城、福島城は大阪湾の河口にある中洲に築かれた城であったため、無理に城に押し入れば味方に多くの犠牲者が生じます。そこで、織田信長は調略を仕掛けました。これにより、和久宗是・三好為三・香西信良・塩田氏などが降伏。このよう中で、足利義昭が、9月3日に細川藤孝が守る中島城に到着。

9月8日

松永久秀、三好義継による浦江城への攻撃を示す図

さらに、織田信長は楼岸砦、川口砦を構築。9月8日に三好義継・松永久秀に浦江城を攻略させました。その後、織田信長は浦江城も、野田城・福島城を攻めるための城として活用。

9月12日

織田軍による野田城・福島城への攻撃を示す図

9月11日になると織田信長は、野田城、福島城への攻撃を開始。両城を攻めるにあたり、織田信長は川を埋め、城の周囲に櫓を建てています。翌日には、織田信長の味方として雑賀衆根来寺・湯川衆・奥群衆2万が3000丁鉄砲を持って、遠里小野、住吉、天王寺に着陣。鉄砲巧者の集団として有名だったのです。織田信長は大量の鉄砲を城方に撃ちこませました。

織田軍の攻撃に耐えられなくなった三好三人衆は、9月12日講和を申し出ます。しかし、織田信長はこれをし、徹底的に叩く算段だったのです。

9月12日夜

石山本願寺による川口砦、楼岸砦への攻撃を示す図

しかし、同日の夜状況は一変します。野田城、福島城から見て南東に位置した石山本願寺が突如として蜂起。一向一揆の信徒が出陣し、織田軍が利用していた楼岸砦、川口砦に鉄砲を撃ちかけたのです。実は、三好三人衆方は密かに本願寺と粘り強く交渉を重ね、味方にすることに成功したのでした。

9月13日

石山本願寺による防堤の破壊で淀川の氾濫を示す図

石山本願寺は織田軍が造った防堤を決壊させたため、野田城、福島城を攻めるために築いていた砦や櫓、浦江城が海水に浸かります。また夜には、石山本願寺の住職(ボス)顕如自ら織田本陣に攻めかかったとも。翌日、翌々日は水が引かなかったため、戦闘行われていません。

9月16日

織田信長三好三人衆本願寺連合軍が対立している中ですが、近江(滋賀県)に目を向けて見ます。織田信長は、約4ヶ月前から小谷城浅井長政一乗谷朝倉義景と敵対関係にありました。織田信長が、攻めあぐんでいる間に浅井長政朝倉義景が、近江(滋賀県)の志賀郡に攻めてきました。

9月23日

9月20日に、織田信長明智光秀村井貞勝を京を守るために戻すとともに、柴田勝家に志賀郡の戦局を視察させるために派遣。2日後、柴田勝家の視察報告により織田信長は撤退を決意。9月23日織田軍は撤退しました。

本願寺が動いた理由

石山本願寺は古くから、周囲に寺内町と呼ばれる町を形成し、自治組織が運営を行い、税金の免除などの特権が認められていました。しかし、織田信長はこの特権を認めず、本願寺から軍事費を徴収し、さらには石山の土地の退去を命じていたのです。

石山本願寺が一方的に不利な立場に立たされていることを知った三好三人衆は、本願寺を味方にするために地道な交渉を重ねていたのです。三好三人衆は、寺内町の特権を認め、さらに富田林、野原野潟への建設の支援を約束したのです。

野田・福島の戦い以後の情勢

織田信長と三好三人衆の和睦を示す図

摂津から撤退した織田信長は、近江(滋賀県)の志賀郡で、浅井長政朝倉義景と対峙することになります。この対峙は志賀の陣と呼ばれ、大規模な戦闘は行われず約3ヶ月間両軍は睨み合うこととなりました。

一方で、三好三人衆方には阿波三好家からの援軍がやってきます。援軍を率いたのは、阿波三好家の当主、三好長治と重臣の篠原長房らでした。援軍を得て三好三人衆は、京に向けたさらなる侵攻を匂わせます。しかし、足利義昭の家臣和田惟政がこれを防ぎます。三好三人衆は、援軍を得ても絶対的な戦力不足だったのです。

最終的に、織田信長三好三人衆は、松永久秀の慎重な交渉によって、12月14日に和睦が成立。これにより、しばらく三好三人衆織田信長の間は小康状態となります。一方で、石山本願寺は、野田・福島の戦い以降、織田信長と約10年間対立を続けるのでした。

姉川の戦い:戦いで読み解く戦国史

姉川の戦いは、織田信長が浅井・朝倉連合軍を撃破した有名な戦いです。しかし、姉川の戦いが浅井・朝倉滅亡の原因になったわけではありません。ここでは、姉川の戦いの前後の情勢も含め見ていきましょう。

灰色の背景と姉川の戦いという文字

姉川の戦いとは?

姉川の戦いの結果と起きた場所を示す図

姉川の戦い織田信長徳川家康の連合軍が、浅井長政・朝倉景健連合軍を撃破した戦いです。姉川の戦いは、非常に有名な戦いですが、それ故に誤解されていることの多い戦いでもあります。以下がその誤解です。

  • 浅井氏・朝倉氏の滅亡原因
  • 徳川家康が勝利の立役者

一つ目ですが、姉川の戦い以降も織田信長は浅井氏・朝倉氏による侵攻に手を焼いています。この後、浅井氏、朝倉氏は信長包囲網の一角を形成するのです。

二つ目ですが、徳川家康が天下を統一した後に、徳川家康を神君化させようとして作成された書物の内容を真に受けて広まりました。実際は、織田軍、徳川軍がそれぞれ活躍して勝利を収めたのです。

姉川の戦い前後の情勢をまとめておきます。

姉川の戦い前後の情勢

以前:織田信長浅井長政の裏切りで金ヶ崎の退き口で敗退

以後:大敗するも浅井氏、朝倉氏は勢力維持

姉川の戦い以前の情勢

姉川の戦い以前の近江の情勢を示す図

織田信長は約1カ月半前、朝倉氏を攻めた際に、同盟者だった浅井長政の裏切りに遭います。そして、朝倉攻めの中止に追い込まれ、撤退戦により織田には多数の犠牲者が出ました。

岐阜城に戻った織田信長は、浅井長政への報復と近江(滋賀県)支配を準備。軍備を整えつつ、有力家臣を近江に分封して支配体制の構築を目指しました。

一方で、浅井長政は美濃(岐阜県南部)と近江(滋賀県)の国境に長比城、苅安城を築き、鎌刃城に掘秀村を配置。織田信長の侵攻に対し、防備を固めたのです。

しかし、織田信長の家臣、木下秀吉(後の豊臣秀吉)の与力竹中半兵衛の調略で堀秀村が織田方に寝返り。この知らせを聞き、織田信長は出兵を決意。

姉川の戦い

6月23日(姉川の戦い5日前)

織田信長が小谷城から横山城へ移動する様子を示す図

1570年6月19日、織田信長は居城の岐阜城を出て北近江(滋賀県)へ出陣。長比城、苅安城の浅井勢は城を退去。2日後の6月21日には、織田信長浅井長政の居城、小谷城を見渡せる虎御前山に布陣。家臣に命じて城下に放火させました。

小谷城を落とすのは困難だったため、織田信長は支城の横山城を攻めるために軍を移動。織田軍の殿(退却の最後尾を担う軍)を浅井軍が攻撃するも、これを撃退。織田信長は竜ヶ鼻に本陣を移動しました。

6月27日(姉川の戦い1日前)

横山城を包囲する織田軍の様子を示す図

織田軍は、横山城を包囲。横山城の守将は大野秀治。横山城包囲から3日後、徳川家康率いる援軍が織田軍に合流しました。

一方、ここまで目立った動きのない浅井長政ですが、唯城に籠っていたわけではありません。朝倉義景に援軍を要請していたのです。徳川家康の援軍が到着した頃、朝倉景健が率いる援軍が到着。浅井長政も出陣しました。そして、大依山に布陣。

6月28日(姉川の戦い当日)

姉川の戦い直前の布陣を示す図

浅井・朝倉連合軍は夜陰に紛れ、姉川の北岸に移動。浅井軍は野村に、朝倉軍は三田村に布陣。織田・徳川連合軍の背後を脅かし横山城の包囲を解かせます。

織田信長小谷城の城下を放火しても、浅井長政が攻勢に出なかったことから、浅井長政の出陣は予想していなかったようです。そのため、織田信長は有力家臣を撤退させていた模様。

有力家臣を撤退させていても、織田・徳川連合軍は間近に迫った浅井・朝倉軍とは戦わざるを得ません。織田・徳川連合軍は織田軍が浅井軍、徳川軍が朝倉軍と向かい合うよう陣を敷きました。

織田・徳川軍が浅井・朝倉軍に決定打を与えるところを示す図

最初に、朝倉軍と徳川軍が激突。朝倉軍が押すも、朝倉軍の側面に榊原康政の部隊が突撃。一方で徳川の本軍も奮闘。

続いて野村に布陣していた浅井軍も動きます。先鋒の磯野員昌の軍勢は、織田軍を散々に打ち破ります。一説によれば、織田軍が構えた13段の陣の内、11段まで切り込んだど言われています。

しかし、稲葉一鉄氏家直元らの軍勢が浅井軍の側面に攻撃すると浅井軍は劣勢に。朝倉軍も徳川軍の攻撃に耐えられなくなります。

織田・徳川軍が浅井・朝倉軍を追撃しているところを示す図

そして、敗走し始めた浅井・朝倉連合国を、織田・徳川連合軍が追います。戦いは追撃戦に移行し、浅井・朝倉軍には多数の犠牲者が発生。織田・徳川連合軍は小谷城がある山の麓に放火。しかし、これ以上は追わずに撤退。

姉川の戦い以降の情勢

姉川の戦い以降の織田信長、浅井長政、朝倉義景の居城を示す図

浅井氏、朝倉氏は大敗するも、織田・徳川連合軍が深く攻め入ることがなかったので、勢力は維持。一方で、織田信長が京を留守にしたため、阿波(徳島県)に逃げていた三好三人衆畿内(京周辺)に上陸。攻勢を仕掛けます。この後、浅井氏と朝倉氏は畿内に戻った三好三人衆石山本願寺と協力し信長包囲網を形成。

金ヶ崎の退き口:戦いで読み解く戦国史

金ヶ崎の退きの口は、織田信長が大敗した戦いですが、見事な撤退戦としても評価されています。ここでは、金ヶ崎の退き口の前後にも注目し、織田信長の決断力に迫ってみましょう。

灰色の背景と金ヶ崎の退き口という文字

金ヶ崎の退き口とは?

金ヶ崎の退く口が起きた場所と勝敗を示す図

織田信長朝倉義景を討伐するために、京から越前(福井県)を目指して進軍。しかし、朝倉領を攻めている最中で、北近江を支配していた同盟者の浅井長政が裏切ります。この知らせを受けた織田信長が、全軍に撤退を命じ朝倉軍との戦いになったのが金ヶ崎の退き口。

金ヶ崎の退き口以前の情勢

織田信長による越前侵攻を示す図

織田信長足利義昭の上洛を支援、足利義昭征夷大将軍に任命されました。そして、朝倉義景に上洛を要求。しかし朝倉義景はこれに応じません。そこで、織田信長朝倉義景を敵と見なし、討伐の軍を起こします。

1570年、織田信長徳川家康が派遣した援軍を伴い京を出発。5日後には、朝倉方の城天筒山城を攻撃。天筒山城は堅牢な山城でしたが、織田信長の号令のもと攻め落とすことに成功。翌日には、金ヶ崎城と疋田城が抵抗することなく開城しました。朝倉方は木の芽峠を防衛ラインにして、戦線の縮小を図ったのです、

同盟者の裏切り

浅井長政の裏切りによる状況変化を示す図

朝倉攻めが順調な中、織田信長に同盟関係にあった北近江の浅井長政が裏切ったという知らせが届きます。織田信長は最初、誤報だと考えていたようですが、続々と届く裏切りの報に信じざるを得なくなりました。

浅井氏と朝倉氏は以前から、同盟関係にありました。織田信長浅井長政が同盟した際も、織田側が無断で朝倉氏を攻めないという条項があったのです。今回の朝倉攻めはこの同盟を無視するものだったのです。

金ヶ崎の退き口

織田信長の撤退経路を示す図

浅井長政の裏切りを確信した織田信長は、全軍に撤退を命令。この決断は、織田信長の名将ぶりが伝わるエピソードです。

この時点で、織田信長は朝倉軍に対し壊滅的被害を与えてはいません。つまり、このまま撤退すれば朝倉軍の追撃を受け味方には大多数の犠牲者が発生。一方で、直ちに撤退しなければ、織田軍は朝倉軍と浅井軍に挟撃され、織田軍は全滅。織田信長は最小限の犠牲で済む選択をしたのです。

織田信長は殿(撤退の最後尾)を、木下秀吉、池田勝正に任せました。金ヶ崎城に殿のみを残し、織田信長はいち早く京に引き返したのです。

織田信長は、朽木元綱の協力により敦賀、朽木を通りました。撤退を決意してから、わずか2日後には京に到着。供をしていたのは、10人ほどだったそうです。

一方で織田本軍も混乱することなく、素早く撤退。さらに、殿も多数の被害を出しながらも撤退に成功。統率の取れた退走と反撃を繰り返し、見事に朝倉軍の追撃を乗り切ったと言われています。また、一説では朝倉軍の追撃が甘かったとも。

金ヶ崎の退き口以後の情勢

金ヶ崎の退き口以降の諸大名の支配地を示す図

大敗を喫したものの京にたどり着いた織田信長、何事も無かったかのように改修中だった御所を視察。その後、京を後にした岐阜城へと戻った織田信長は、裏切り者浅井長政と戦うための準備を開始。約1カ月後には、浅井長政との戦いのために再度出陣。姉川の戦いへと続きます。

また、上洛戦で取り逃がした六角承禎・六角義治が南近江でゲリラ戦を展開。織田信長はこの鎮圧と、南近江への家臣配置も実行しました。

三好三人衆との戦い:戦いで読み解く戦国史

足利義昭の上洛を支援した織田信長は、三好三人衆と戦います。ここでは、三好三人衆織田信長、その周辺の勢力と戦いの影響まで含めて紹介しています。

三好三人衆という文字と灰色の背景

三好三人衆との戦いとは?

三好三人衆と織田信長の勢力図と争いの結果を示す図

足利義昭の上洛を支援した織田信長は、京から避難し畿内(京周辺の地域)に逃れていた三好三人衆とそれを支持する勢力と戦います。影響力の強い三好三人衆を、畿内から追放しようとしたのです。

三好三人衆との戦いの前後のまとめ

以前:三好三人衆畿内で抵抗

以後:三好三人衆畿内を退去

三好三人衆との戦い以前の情勢

三好三人衆が籠った城の位置を示す図

織田信長は、足利義昭の上洛を支援し南近江を支配した六角氏との戦いに勝利。足利義昭は無事に上洛を果たします。三好三人衆と阿波(徳島県)の三好家は、足利義昭の上洛に反対するも防げなかったのです。

なぜなら松永久秀、三好義継、畠山高政根来寺、毛利氏との争いを強いられたから。織田信長と上記の勢力は協力関係にあったのです。足利義昭の上洛に際し、劣勢の三好三人衆は京から畿内の城に撤退し、松永久秀や三好義継、畠山高政根来寺の対処に追われます。三好三人衆が籠もった城は以下。

勝竜寺城攻め

勝竜寺攻めの結果と起きた場所を示す図

足利義昭の上洛を達成した織田信長自身は上洛を果たさず、三好三人衆畿内から追放しようとします。三好三人衆織田信長と協力関係にあった勢力と争っており、兵力が分散した今が絶好のチャンスでした。

織田信長がまず攻めたのは、岩成友通が籠る勝竜寺城。城兵は500人でした。織田信長は、家臣の柴田勝家、蜂屋頼隆、森可成坂井政尚を派遣し猛攻を掛けさせます。

翌日、織田信長が自ら5万の大軍を率いて出陣すると、岩成友通は降伏。城を明け渡し淀城へ逃亡しました。

芥川城に入城

織田信長が芥川城に入った際の三好三人衆逃亡経路を示す図

勝竜寺城を落とした織田信長は、翌日に三好長逸が籠る芥川城を攻めるために山崎に軍を進めます。すると、芥川城に居た三好長逸は戦わずに城を捨て逃亡。織田信長足利義昭を伴い戦うことなく芥川城に入城。芥川城が織田方に渡ったことにより、淀城の岩成友通、木津平城の三好宗渭も城を捨て逃走。

池田城攻め

織田信長が城に入った際の摂津の諸将の動向を示す図

織田信長が芥川城に入ると摂津の三好三人衆方越水城の篠原長房と瀧山城に籠もった城兵も逃亡。さらに、三好三人衆派だった摂津衆の伊丹城主、伊丹親興も降伏します。

織田信長に最後まで抵抗した摂津衆は池田勝正でした。池田城に籠るものの、織田信長が兵を率いて城下を焼き討ちすると直ちに降伏。池田勝正は降伏の証として、人質を5人も差し出します。池田勝正が降伏すると、支配下にあった茨城城、高槻城も降伏しました。

三好三人衆との戦い以後の情勢

織田信長が決めた畿内の諸将への分配を示す図

池田勝正を下した後、足利義昭織田信長は芥川城に戻り、論功賞を行います。以下のように畿内の土地を分配しました。

織田信長が労せず、足利義昭の上洛と三好三人衆の排除を成し遂げたのは、畿内松永久秀、三好義継、畠山高政根来寺らが協力したからでした。そのため、上記勢力を優遇した論功賞となったのです。

一方で、京に近い畿内は京から離れた尾張、美濃とは政治的な状況が違います。室町幕府や朝廷、公家、寺社の影響力が強いのです。また、その土地の武士も、余所者より地元の有力者の方が扱いに慣れています。このような政治的背景もあり、上記勢力に加え敵方だった池田勝正や伊丹親興を登用したと考えられます。

この後、足利義昭室町幕府第15代将軍に任じられます。

織田信長の上洛戦:戦いで読み解く戦国史

織田信長は、上洛(京に上ること)の支援を何度も足利義昭に求められていました。ここでは、織田信長の上洛戦について紹介しています。

灰色の背景と上洛戦という文字

上洛戦とは?

上洛戦の結果と織田信長、六角承禎の居城を示す図

足利義昭からの上洛援助の要請に応え、織田信長足利義昭の上洛のためのルート確保を行いました。近江(滋賀県)南部に勢力を張っていた、六角氏と戦ったのです。ここでは、足利義昭が京に入るまでに行った織田信長の一連の戦い上洛戦と呼ぶことにします。

上洛戦前後のまとめ

以前

以後

  • 六角氏は近江の山中に潜伏しゲリラ活動
  • 三好三人衆は京から逃亡するも抵抗姿勢

上洛戦以前の情勢

織田信長が上洛する前の諸勢力の対立を示す図

織田信長足利義昭に再三の上洛支援を要請されるも、美濃攻めで手一杯でした。しかし、稲葉山城斎藤龍興を追放し美濃を平定すると、上洛する際の安全を確保するために、伊勢(三重県の一部)北部を平定。足利義昭を岐阜に迎え、上洛のためのルート確保へと移ります。

織田信長は上洛に際して、近江を経由するルートを選択。南近江に勢力を持っていた六角氏に上洛への協力を依頼。しかし、六角承禎がこれを拒否したため、織田信長は力づくでルートの確保に出ます。

一方で、当時の京の有力者は三好三人衆(三好長逸三好宗渭岩成友通)。しかし、三好三人衆松永久秀畠山高政、三好義継、根来寺らと対立していました。

上洛戦

織田信長の進軍経路を示した地図

意外かもしれませんが、足利義昭は上洛戦には参加していません。織田信長が上洛のルートを確保するまで、岐阜で待っていました。織田信長は六角承禎の討伐のため、尾張(愛知県西部)、美濃、北伊勢、三河(愛知県東部)の兵を動員。その人数は4万〜5万。そして。美濃の平尾村に布陣。

その後、織田信長は、近江の高宮に移動。ここで、同盟関係にあった徳川家康から派遣された松平一忠、義弟の浅井長政らが率いる軍勢と合流。そして、愛知川に軍を進めました。

箕作山城を織田軍が包囲することを示す図

六角氏は、その支配地に広がる山々に築いた支城に籠城。相手の兵力を各城に分散させ、各城が連携しながら戦う作戦をとりました。これに対し、織田信長は自ら戦場を視察。敵が箕作山城と和田山城に主力を分散配置していることを見抜きます。そこで、和田山城、観音山城に抑えの兵を置き、箕作山城に総攻撃を命じました。

織田方の佐久間信盛木下藤吉郎(後の豊臣秀吉)、丹羽長秀、浅井新八は箕作山城に猛攻を掛けます。守将の吉田出雲守は一日も経たずに降伏開城。これにより、和田山城も戦わず降伏。

六角父子が観音寺山城から逃げるところを示す図

翌日、織田信長は六角承禎・義治の父子が籠る観音山城を攻めようとします。すると、六角父子は、戦う前に城を捨て逃亡。

上洛戦以後の情勢

足利義昭上洛後の諸勢力の位置を示す地図

六角氏を追い払ったことで、上洛への道筋を確保した織田信長は、足利義昭を迎えに岐阜の立政寺へ不破光治を派遣。その後、足利義昭は近江を経由して無事に上洛を果たしました。

しかし、六角義賢・義治父子が観音山城から逃亡し滅ぼせなかったために、南近江の諸勢力は降伏する者と抵抗する者に分かれてしまいます。その結果、南近江では六角氏やその家臣との小規模な戦いが続くことに。

京では織田信長が大軍を率いて上洛するという噂が立ちパニックに陥っていました。実際、天皇は天下静謐を願った祈祷まで行なっています。三好三人衆織田信長足利義昭を伴い、上洛するという知らせり受け、京から脱出。京の様子を耳にした織田信長は、京の市内には入らず、東寺に在陣。

京を出た三好三人衆畿内の城に逃げ込みました。織田信長はこの後、三好三人衆と争うこととなります。

忍城攻め:戦いで読み解く戦国史

忍城攻めは、石田三成が初めて一軍を率いる主将となり戦いに臨んだ戦いです。また、忍城攻めは石田三成の戦下手を象徴するエピソードとして伝わっていますが、実際は水攻めの指示を出したのは石田三成でないようです。

忍城攻めと灰色の背景

忍城攻めとは?

忍城の意図と忍城攻めの結果を示す図

忍城攻めは、豊富秀吉が行なった小田原征伐の一環で、石田三成が初めて指揮官を務めた戦いです。忍城は武蔵(埼玉県、東京都の一部、横浜県の一部)にありました。

最終的に忍城方は降伏するので、石田三成率いる豊臣軍の勝利ということになります。

忍城攻め前後のまとめ

前:豊臣秀吉小田原城を包囲

後:忍城一帯は徳川家康支配下

忍城攻め以前の情勢

忍城までの石田三成の進軍経路を示す図

豊臣秀吉は北条氏を征伐の号令を諸大名に出します。1590年、豊臣軍は小田原城(神奈川県)に向けて進軍。東海道線から攻め入った豊臣秀吉率いる軍勢は、小田原城を包囲。一方、北から東山道を通り小田原城を目指す軍は、周囲の城を攻略しつつ南下。

豊臣秀吉率いる軍勢は、小田原城の包囲を終えると、他の城を攻略し始めます。忍城攻めはこの一環で行われた戦いです。

小田原城を包囲後、豊臣秀吉は従軍していた石田三成に館林城(群馬県)と忍城(埼玉県)を攻め落とすことを命じました。一軍の指揮官となるのは、石田三成にとって初めての経験でした。石田三成の指揮下に入った武将は以下です。

石田三成は、合計2万3000の軍を率いて進軍します。まず、館林城を包囲し降伏を呼び掛けると、城方はこれに応じました。館林城を攻略した軍勢は、忍城へと進軍。

忍城は成田氏の居城で、城主は成田氏当主の成田氏長。しかし、成田氏長は小田原城に出向いていたため、忍城にいませんでした。そこで、忍城の指揮を任されたのが、成田泰季。

忍城攻め

石田三成忍城を包囲すると水攻めにします。「水攻め」とは城の周囲を堤防で囲み、付近の川から水を引き入れることで城の周囲や、城を水没させる攻め方のことです。

近年まで、水攻めを決断したのは石田三成であったと信じられてきました。しかし、当時の書状など、確証高い一次史料によれば、水攻めにすることを決めたのは豊臣秀吉だったようです。忍城を水攻めにすることは、石田三成が現地に赴く前からの決定事項だったと推察されます。

忍城は湿地帯に築かれた城で、周囲には湖沼や水田が広がっていたため、非常に攻めづらい城でした。しかし、一方で湿地帯であるということは、水攻めを仕掛けるのには向いています。さらに、忍城の近くには荒川と利根川があり、川から水を流し込むことも容易だったのです。

石田三成忍城に到着すると、浅野長政に書状で城攻めの方法を相談。数万の将兵を指揮する経験がなかった石田三成にとって、当然の決断です。また、豊臣秀吉に水攻めのための、具体的な堤防構築計画を作成し提出。豊臣秀吉に承認を得ています。

石田三成が築いた堤防の全長には諸説あるものの、28 kmもの堤防だったと言われています。工事には付近の住民を黄金や米で雇い動員しました。そして、荒川と利根川から水を引き入れたのです。しかし、水攻めは失敗に終わり忍城よりも小田原城の方が早く落ちます。

石田三成が構築した堤防は、決壊し石田三成の本陣に水が流れ出し、数人から数百人が亡くなったと言われています。また、忍城が開城したのは小田原城に籠った城主の成田氏長を豊臣秀吉が説得し使いを出させたからという説もあります。

忍城攻め以後の情勢

徳川氏支配時代の忍城の城主を示す図

忍城攻めを終えた石田三成は、宇都宮にいた豊臣秀吉の下に向かいます。そして、奥州に派遣され大名の配置換え等に携わりました。その後は京に戻り政務を執行。

一方で、忍城主の成田氏長は会津に領地を移された蒲生氏郷に仕えました。後に下野(栃木県)烏山2万石の大名に復帰。豊臣秀吉の側室となった娘、甲斐姫の斡旋があったとも。

北条氏が治めた土地は、徳川家康に与えられます。忍城徳川家康配下の松平家忠が支配し城下を復興。2年後には、徳川家康の、四男松平忠吉の居城となります。

北伊勢攻め:戦いで読み解く戦国史

北伊勢攻めは、織田信長が北伊勢の中小領主を従えるために行いました。北伊勢攻めにとその前後の情勢について見ていきましょう。

北伊勢攻めという文字と灰色の背景

北伊勢攻めとは?

北伊勢の場所と北伊勢に含まれる郡を示す図

織田信長足利義昭の上洛(京に上ること)を支援するための、地ならしとして、伊勢(三重県の一部)北部に侵攻しました。それらの戦いを総称して、ここでは北伊勢攻めと呼ぶことにします。

北伊勢攻め前後のまとめ

以前:北伊勢は中小領主が支配

以後:北伊勢の中小領主は織田信長支配下

北伊勢攻め以前の状況

北伊勢の郡と北伊勢を治めていた氏族を示す図

足利義昭は度々織田信長に上洛の支援を要請。織田信長は美濃(岐阜県)攻めの最中でしたが、将来の上洛に備え、家臣の滝川一益を伊勢の桑名に派遣し、支配下に置きました。桑名は港町であり、北伊勢攻めの足掛かりにしようとしたのです。

当時の北伊勢の支配体制は、以下のようになっていました。小領主が乱立した桑名郡員弁郡朝明郡三重郡。同族の関氏・神戸氏が支配する鈴鹿郡河曲郡。長野氏が支配する安濃郡奄芸郡には、関氏・神戸氏と長野氏の勢力が存在していました。

北伊勢諸氏との戦い

北伊勢諸氏が治めていた郡を示す図

美濃攻めから1カ月も経たずに織田信長は、北伊勢に出陣。滝川一益に制圧させた桑名を経由し北伊勢に侵攻しました。

北伊勢の桑名郡員弁郡朝明郡三重郡には小規模な領主が乱立している状態でした。織田信長滝川一益を主導として、これらの地域に侵攻すると、諸氏の多くは抵抗することなく降伏。瞬く間に4郡の大部分を降したのです。

高岡城攻め

高岡城攻めの勝敗と高岡城の位置を示す図

4郡を降した織田信長は、神戸氏との戦いに移ります。神戸城の支城、高岡城を包囲。高岡城は神戸氏の家老、山城弾正が城主を務めていました。

織田軍は城下を焼き払い攻撃を加えるも、城方の抵抗に遭い一向に落城の気配がありません。美濃を平定して間もない織田信長は、美濃の情勢を懸念し撤退を決意。高岡城織田信長の撃退に成功しました。

北伊勢諸氏との戦い2

高岡城攻めから約半年、美濃の支配体制を確立した織田信長は、北伊勢攻めを再開。以前と同様に桑名郡員弁郡朝明郡三重郡の4郡の諸氏は、直ちに織田信長に服属しました。

神戸・関氏との戦い

神戸城攻めの勝敗と神戸氏、関氏が治めた土地を示す図

続いて織田信長は神戸氏を攻めます。神戸具盛は縁戚である関氏とともに抵抗姿勢を示していましたが、織田軍に神戸城を包囲されると降伏を申し出ます。織田信長の三男、信孝を婿養子として神戸氏の家督を譲ることを条件に、降伏が認められました。

織田信長は前年落とせなかった高岡城を包囲していましたが、今回も攻略できませんでした。しかし、主君の神戸具盛が降伏したことから、高岡城の山路弾正も降伏したと考えられます。また、縁戚にあたる亀山城の関盛信も降伏したと考えられます。

長野氏との戦い

安濃城攻めの勝敗と長野氏が治めた土地を示す図

神戸氏を降した織田信長は南下。長野氏との戦いとなります。織田信長は長野氏の属城、安濃城を攻めます。安濃城に籠っていた細野藤敦は織田信長に対し抗戦姿勢を見せていました。

ところが、細野藤敦の弟、分部光嘉が、長野家の当主で長野城主である長野具藤を長野城から追放。織田信長に降伏を申し出ます。なぜなら、長野具藤は伊勢南部の北畠氏からきた養子で、命を懸けてまで仕える相手ではなかったからです。

先代の長野家当主、長野藤定が北畠氏からの圧力に屈服し、北畠氏から養子を迎え長野家の家督を譲ることを渋々認めされられました。そして、長野家当主となっていたのが長野具藤でした。

織田信長は、長野家の家督織田信長の弟信包に継がせることを条件に降伏を認めました。こうして、抵抗する意味がなくなった安濃城も織田信長に降伏。織田信長を労せず長野氏を降しました。

北伊勢攻め後の情勢

北伊勢後に織田信長支配した土地を示す図
北伊勢を平定したことで、織田信長は上洛をする際に背後を脅かされる可能性を低減することに成功。北伊勢の諸領主は、織田信長につき従います。そして、畿内の諸勢力と協力のもと足利義昭の上洛を実現に邁進するのです。